中国で新型コロナウイルスの感染拡大が始まって以来、欧米では、街中やSNS上で人種差別(レイシズム)的な言葉を浴びせられたと訴える声が相次いでいる。
イタリアの新聞、レプブリカ紙によると、ローマにあるサンタチェチーリア音楽院でも、学長が日本人を含む東洋人へのレッスンを当面取りやめる方針を示し、物議を醸していると報じた。約160人の教員向けに「東洋人(中国、韓国、日本など)には医師の診察を受けさせ、医師の許可が出れば登校を認める」とのメールを送ったという。
また、ローマの観光名所、トレビの泉の近くにある飲食店では1月31日朝、中国人の来店を拒否する貼り紙が掲示された。ローマ市内の観光名所は近年、中国人観光客の姿が目立っており、住民に不安が広がっているとみられる。貼り紙はその後撤去されたというが、とんでもない人種差別だ。
しかし、コロナウイルスだ、インフルエンザだ、というけれど、それよりも早く広がるのは、 無知, レイシズム, 不合理なパニック.ではないだろうか?
結局人は、自分を棚に上げて人をフィルターという枠にかけて見ていないだろうか?いや、枠に押し込んでいるようにさえ思える。
今日私はミサ中、喉が渇いた状態で高音を歌っていたらいきなり喉がイガイガになり咳き込んでしまった。思わず、祭壇の下のお御堂にいる信徒たちの目が皆私に集中しているような気がしてぞっとした。苦笑 ここは教会だぞ! 爆
人は皆自分には敏感で、人には鈍感なのかもしれない。
基本的に、私は常に何事にも「敏感」でありたいと思うけれど、時に「鈍感力」も必要だ。故作家渡辺淳一氏の著書「鈍感力」によれば、鈍感力とは、どんな時もくよくよせず、へこたれずに物事を前向きに捉えていく力のことであり、傷ついてもすぐに立ち直れるし、いろいろなことを言われてもすぐに忘れられるという。確かに完璧主義過ぎたり、責任感が強すぎて仕事を全て抱えたり、周りの言動を気にしすぎる人ほど、得てしてストレスでつぶれやすい。これは見方を変えれば「敏感」であるがゆえの弊害かもしれない。
「敏感」「鈍感」正反対な言葉ではあるけれど、結局一人の人間は本来両方とも持ち合わせているもの。「敏感」さが時に差別を生み、「鈍感」さで人を攻撃する。
この互いに相反する感覚・感性を仕事、プライベートで上手にバランス良く使い分ければ良いが、下手をすれば差別に発展し兼ねない。というか、既に世界中でこの問題が起きている。
まあ「人種差別しないようにしよう」という過剰な配慮が、逆に差別してしまっている...ということもありうるわけで、とかくこの世はままならぬ...か。