「今日」 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

今日、
わたしはお皿を洗わなかった
ベッドはぐちゃぐちゃ
浸けといたおむつはだんだんくさくなってきた
きのうこぼした食べかすが 床の上からわたしを見ている
窓ガラスはよごれすぎてアートみたい
雨が降るまでこのままだと思う
人に見られたら なんていわれるか
ひどいねえとか、だらしないとか
今日一日、何をしていたの?とか
わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた
わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた
わたしは、この子とかくれんぼした
わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、
それはきゅうっと鳴った
わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった
わたしは、この子に、していいこととわるいことを、教えた
ほんとにいったい一日 何をしていたのかな
たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと
でもこう考えれば、いいんじゃない?
今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために
すごく大切なことを していたんだって
そしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ

『今日』(訳:伊藤比呂美 画:下田昌克 刊:福音館書店)
 
           〜 • 〜 • 〜 • 〜 • 〜 • 〜 • 〜
 
子供が小さい頃、良妻賢母になりたいと思った。お菓子も手作り、洋服も手作り。いい母親でありたい、そう思った。自分もそう育ってきたからだ。両親は私の勉強に対して、特に何も言わなかった。というか言われた記憶はない。好きなことをさせてもらって来たと思う。
 
けれど、我が家は出張の多い夫で、ほとんど子供とカプセル状態。夫の不在時に限って子供の発熱、怪我、家の問題などよく起きて、夫の出張が近づくたびに精神不安定になったものだ。
 
ある時、長女が幼稚園を卒園し、現地の小学校に上がったその月の月末に5日間林間学校に出かけた。新しい環境で生まれて初めての外泊。心配で心配でたまらなかったが、生徒は順番に一度だけ親に電話をかけられるのだが、ある朝、長男の幼稚園ママ達とバールにいると、旅行中の長女から電話が入り「ママ〜、楽しくて楽しくてたまらない!帰りたくないよ〜」と言われた時は、思わず嬉しさと寂しさと涙を流してしまったくらいだった。周りにいた友人達は驚いて、日本の家族に何かあったのか?と勘違いされたくらいだったが、日本人の友人に話すと、そうだよね。そうだよね。わかる、わかる...子育て一生懸命だから泣けてくるんだよ!と一緒に涙を流してくれて、再び涙を流すことがあった。
 
そうなのよ!子育て一生懸命だからこそ、母親としての誇りがありつつも、喜怒哀楽も出てしまう。がんじがらめのことも多い。
 
また、教会に子供を連れて行けば、子供としては全く普通の態度ではないか?イタリア人に比べたらずっと大人しく、人様に迷惑なんぞ掛けることもなかったのでは?(次男がミサというとわざと調子にのってちょろちょろする時代もあったが)と思いつつ、しつけが悪いと言われ、どっと落ち込むことも多々あった。
 
でもある時、ぱっかーん!と割り切れた。全部無理!完璧なんて無理なんだわ!と。子供に小言を言うことも、逆効果だとわかりつつも言っていたのが、いきなり億劫になった。(諦観か?!)また、教会のミサ中でもそうそうに騒がない限り、子供には寛大になったと思う。子供は子供らしい方が良い!
 
今思うと、私の子育てには余裕がなかったと思う。自己嫌悪の嵐の時に、子を育てる人に優しく寄りそうこんな詩に出会えていたらな...とふと思う。
 
未だ、子育ては終わっていないが、子育てに答えなどないはずだ。ある視点から見たら失敗だという人もいるかもしれないが、また違う視点で見てみると決して失敗していない。本来、子育てには失敗なんてものはないのかもしれない。
 
答えを探して疲れてしまった子育て中の方に是非読んで欲しい詩。少しでも肩の荷を降ろして子供に接して欲しいもの。