第19回「華厳の陣」が終了した。
完敗。今回はテーマのごとく水のように、無駄な力を抜いて大会に臨んだつもりだった。そして、決して勝ち負けではないと思っていても、負ければやはり悔しい。
この2週間、ペアを組んだ66歳のMとワンスーを100回は打ったと思う。実際彼はものすごく伸びたと思うけれど、結果を出せず。来年の春くらいまでに彼は2級に昇級するはず。もっと上手くなって昇級出来るよ!と励ました。
ところで、この日のために次男は地道に稽古を続けて来たが、いきなり流行のウイルス?にかかり胃腸がやられ4日もの間、お腹を下し、ほとんど物を食さず寝たきり。あの子がこれほどまでに、食べず動けないのだから、体力がない人がかかったらどうなってしまうのだろう。しかも、倒れる前から始めたダイエットのプログラムも重なり5キロも落ちた。(まあ〜もともとが肥満気味だから5キロくらい痩せてもどうってことないのだけれど。苦笑)ギリギリまで様子を見て来たが流石に体力も落ち、参加は断念した。
今回見て思ったのは、やはり「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」。日毎の稽古の積み重ねが出てしまうもの。それは練習量にも比例する。まさに「空手は湯の如し 絶えず熱度を与えざれば元の水に還る」だ。 日々怠ることなく稽古に励まなければ大成は難しく、怠れば後退を余儀なくされてしまう。稽古とは技を磨くのみならず、やる気や集中力、忍耐力、継続力。そして常に向上心を持つこと。
先日、ある組手の稽古で、指導者が稽古中でも相手をリスペクトするために、応援はしてはいけないと伝えたそうだが、やはり武道とは...と理解してもらうのは難しいのだろうか?試合中も”Vai! vai!"(行け!行け!)と言っているグループがいたので注意をした。試合相手に対し、「さあ、来い!」というジェスチャーをしている選手もいた。はあ?である。
またみる態度も稽古の一環。はじめの挨拶で、師範より「自分の番が終わったからといって、観客席に上ったり、走り回ったり、おしゃべりをしてはいけない。これも「礼に始まり礼に終わる」の一つである」とあった。といっても、数人それをやぶる子がいた。何度か注意すると「なぜいけないの?」と言ってきたから驚いた。「初めに、師範はなんて説明したか聞いていなかったの?礼に始まり...これは空手をする人の基本なの!」というと、しぶしぶ見学している門下生の中に戻っていった。
注意をするのも、いい加減嫌になる。しかし、こういう憎まれ役?もいないと、道場も良くならないだろう。とはいえ、辛口かもしれないが、こういうシーンを繰り返し見ていると、どうしても学びに対する姿勢に差が出てしまっても当たり前だと思ってしまう。伸び代のある子と無い子の差、だ。
宮本武蔵の言葉で「目には観の目と見の目があるが、観の目を強くし、見の目は弱くする。」というのがある。
これは、相手の動きを「目」で見てから行動を起こすより、「観の眼」つまり「心の眼」で相手の動きや心理を良く観る事が大事だということを説いてる。しかし、相手の心を読む、ということはそうそう簡単ではない。
稽古や試合を拝見して学ばせて頂く。そして相手に対する敬意を持つことが大切。
「体の鍛錬」と共に「心の眼の鍛錬」が非常に大事。常に意識を持つこと。
最終的に思うのが、常に「日々精進」ということ。

