まだこれから、今回の帰国のメインイベント?である空手の大会があり、その前に集中稽古、セミナーなどがあって、その後のことなんて考えられないというのに、それでも墓参、買出しがあって出発。ミラノに戻れば戻ったで翌日、翌々日と人が来て、そのまま旅行が始まる。
慌しい日々が始まるから、いつものようななんともいえない憂鬱に浸ることもないだろう...と思いつつ、じわじわ始まったなんともいえないザワザワ感。
今回は親の老いをまざまざと見、「老いる」とは?「介護」とは?改めて考えさせられている。人は生まれ、成長し、やがて老いて死を迎える。普遍的な人の一生だ。けれど、人は一人では生きられない。常に誰かの助けを受けながら生きている。
ところで、私の父は頭はしっかりしているが、足がかなりまずい。トイレもお風呂も連れて行けば一人で出来るが、連れて行くまでが一苦労。施設には頑として行きたがらず、結局面倒を見ているのは母一人。そのせいでは母ぐっと痩せてしまった。週に何度かlineで母の愚痴を聞いているけれど、まるで母の命を削っているようでたまらなくなる。
当たり前のように出来ていたことが出来なくなる。そのため人の手を借りなければ生活することが困難になる。そのサポートが「介護」だ。
先日78歳のイタリア人の神父様のところへでかけ、しばらくおしゃべりしてきたが、やはりまだ頭は何とか動いているけれど、今まで当たり前のように出来ていたことに思い切り時間を費やしてしまうのだとおっしゃっていた。昨年、ある神父様の葬儀に参列したら、「次は自分の番だ!」と豪語されていた神父様も転んで骨折をし手術をしたと聞いた。
自分も必ず老いる。きっと「こんなはずじゃなかった」と思うことだろう。実際、視力が落ち、白髪も増えてきた。えっ?私が..?!と思ってしまう。
介護の始まりとは、自己、他者を問わず、「老い」を意識することから始まるのだろう。
「介護」とは、生活であると同時に、命を支えることでもある。帰国の時しか実際、父を見られないし、母に寄り添うことはできないけれど、やはり試行錯誤の日々だ。大切なのは向き合うこと。
親の「介護」は、自分の「老い」のリハーサルでもある。また、日野原先生は「死に方は生き方で決まる。」ともおっしゃっていた。親に限らずひと様を粗末にしたら、きっと自分も粗末に扱われることだろう。
人が最期に大切なのは、癒しと祈り。少しでも心穏かにすごして欲しい。そして自分自身もそう過ごしたいと思う。
