病者のために
見捨てられ、死ぬがままの状態に置かれた病者たちのために祈りましょう。一つの社会は、生命が保護される時、その最初から自然の死に至るまで、誰が生きている価値があり、誰が価値がないかを選ばず、すべての生命が守られる時に、人間的な社会とされるのです。医師は命のために奉仕し、命を取りあげるために奉仕するのではありません。
これは、今日パパ様が発信されたツィートだ。フランスで、植物状態にあるバンサン・ランベール氏は既に7月2日より水分補給や栄養の静脈投与を停止されており、その状況に対し、パパ様が全世界に向け祈りを捧げられた。
「安楽死」と言って思い出すのは、昨年亡くなったDJ Fabio.(1978年生まれ) 彼は、保険屋、ブローカー、レーサーなどを経て、その後DJ Faboと名が知られるようになったが、3年前に交通事故に遭い、四肢麻痺、失明。当時は希望は捨てていなかったが、すべての治療法、リハビリにも回復の兆しが見れず、ついにSNSなどを通じ、安楽死を認めるよう国に訴え始めた。結局、イタリアの法律は安楽死を認めておらず、彼はスイスへ行き、2017年2月27日、彼の意思にそって生涯を閉じた。
また、10年前にも、17年近く昏睡状態にあった女性(エルアナ)が裁判で争った末に安楽死が認められ、栄養補給チューブを外し6日後亡くなる、ということがあった。あの当時もイタリアでは大論争だった。
ところで、安楽死とは、毒物を注射したり、飲んだりして積極的に死を迎えること。安楽死法が制定されたオランダでも、実際実施されることは少ない。これに対し、人工呼吸器や胃瘻、透析などの延命治療を中止して消極的に死を選ぶことを尊厳死と呼ぶ。重要なのは安楽死と尊厳死を区別することが重要だ。
上記のランベール氏に関しては、2008年の交通事故で脳に重度の損傷を受け、四肢麻痺となり、彼の妻曰く、ランベール氏が延命治療によって生かされ続けたくはないと話していた、ということで、担当医は2014年1月、「消極的安楽死」を認めるフランスの法律と、妻と兄弟8人のうち6人の同意に基づき、栄養の静脈投与を停止することを決定。だが敬虔なカトリック教徒の両親と兄弟2人は、生命維持の継続を求めて訴訟を起こしたのだという。
しかし、欧州人権裁判所は判決で、ランベール氏に対する栄養の静脈投与の停止が、欧州人権条約(European Convention on Human Rights)に違反していないと判断。一審では生命維持停止を認めない判断が下されたが、フランスの最高行政裁判所である国務院は昨年6月、回復の見込みが全くない患者の治療を中止することは合法との判断を言い渡した。ランベールさんの両親はこれを受け、欧州人権裁判所に訴えを起こしており、家族間での争いは全世界でも議論となった。
「安楽死」はイタリア語で"Eutanasia"と言う。語源は、古代ギリシャ語"euthanasia" → "eu" bene(良い)" thanatos" morte(死)「良い死」つまり「安らかな死」と意味したのだろう。
初代ローマ皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14年)は、苦しまずに死んだ人の話を聞くと自分と両親に同じような「安楽死」が訪れることを祈り、いつもこのギリシャ語を口にしていたと言われる。2000年前も今も人の本質というのは、変わらないということなのか?
「死なせること」が「積極的安楽死」であり、「死ぬにまかせること」 が「消極的安楽死」 ということなのか? 最近の日本の政党で「安楽死制度を考える会」というのがあり、驚いた。代表者が大病を経験し、耐え難い痛みや辛い思いをしてまで延命したくない、と思ったのだろうが、安楽死を認める法案が成立した場合には、医師に自殺幇助罪が適用されないだけで予算を必要としないため、予算をかけずに千差万別の価値観を持つ多くの国民が共通した安心感を感じれる。つまり「死」を選べる、というのはどうなのだろうか?非常に違和感を感じる。
これは常に難しい問題だと思う。授かった命は必ず返す日がやってくる。それでも死生観は人それぞれだ。それは国民性や宗教によっても考え方は異なるかもしれない。生命倫理学は西洋キリス ト教的立場と、 東洋の仏教的立場とでも、 生命に関する認識が異なるのだから。
「生きていく」と「生きている」は一文字しか変わらないが、意味合いは全く違う。「生きていく」には、勇気も愛情も必要だし、何よりも力がいる。でも一人では生きていけない。
「死にざま」は「生きざま」だろう。せめて、死を迎えるギリギリまで精一杯生きて生きたいもの。
ミラノの日常「エルアナ」
http://blog.livedoor.jp/s_sofia1317/archives/2009-02.html
ミラノの日常 「安楽死 〜 DJ Fabio」
