ここのところ、イタリア人のDJ Fabo(ファーボ)と呼ばれる元DJの安楽死についてメディアで騒がれている。
Fabiano Antoniani(ファビアーノ•アントニアーニ)1978年生まれ。保険屋、ブローカー、レーサーなどを経験し、その後DJ Faboと名が知られるようになったが、2年前に交通事故に遭い、四肢麻痺、失明。当時は希望は捨てていなかったが、すべての治療法、リハビリにも回復の兆しが見れず、ついにSNSなどを通じ、安楽死を認めるよう国に訴え始めた。
結局、イタリアの法律は安楽死を認めておらず、彼はスイスへ行き、2017年2月27日、彼の意思にそって生涯を閉じた。
ここで, 8年前のちょうどこの時期にやはり安楽死として生涯を閉じたエルアナを思い出す。カトリックとしての見解を私の代母のシスターマリアが書かれ、また昨日、ヴァチカンのBagnasco枢機卿による安楽死に対する見解が新聞<Avvenire>に掲載されていたが、「人間の尊厳」とは何か?非常に難しい問題で、とても重い気持ちになってしまった。
http://blog.livedoor.jp/s_sofia1317/archives/2009-02.html
授かった命は必ず返す日がやってくる。それでも死生観は人それぞれだ。
「生きていく」と「生きている」は一文字しか変わらないが、意味合いは全く違う。「生きていく」には、勇気も愛情も必要だし、何よりも力がいる。でも一人では生きていけないんだよね。
「死にざま」は「生きざま」だと言う。
せめて、死を迎えるギリギリまで精一杯生きて生きたいもの。
