学ぶということ | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

学は人たる所以を学ぶなり...吉田松陰の有名な言葉である。

 

今の学校教育は詰め込み式で、ただ単に知識や理論を覚えるだけでは興味がない限り、それが楽しくもおかしくもなく、一定の期間が過ぎれば忘れてしまうことだろう。

 

学ぶのは知識を得るためでもなく、職を得るためでもなく、己を磨くため。役に立つためでも、役目を果たすためでもなく、 世の中の為に己がすべきことを知るためではないだろうか?

 

また、知行合一という言葉がある。

 

知識と行為は一体であるということ。つまり、この本質は、知ってから行うのでもなく、行ってから知ることでもなく、知ることは行うことで、自分でものにしながら習い、そして習いながらも自分のものにしていく...自修自得こそ元々の「学ぶ」ということなのではないだろうか?


義務教育はもちろん、高校時代の間は、知識を得ることは大切だが、自分は何をしたいか?何ができるか?常にアンテナを張っているべき(つまり好奇心を持つこと)、だと思うが、受け身でいるとなかなかそれが身に付かない。

 

私見だが、人の目を見た時、その輝きで、その方がどういう状態か想像する。もちろん、疲れていて目が輝きが薄れていることもあるだろう。けれど、喜びに満ちた人の目は明るく、輝いている。

 

結局「学び」の原点はここなんじゃないかと思う。自分に何ができるかを知り、与えられた能力を存分に発揮するために学ぶ。花と一緒。置かれた場所で一生懸命を花を咲かせる姿に常に感動する。自分の殻を破り、成長し、自分のあるべき姿に成長していくのだ。

 

私は咲ききった?まだ咲こうとしているのだろうか?苦笑

 

自分はこんなもんだろうな、と思ったら人生終わりだと思う。もっとやれる!という思いがある限り、人は学び続ける。

 

ああ、そう考えると本来人生楽しいんだな。自分の姿なんて知り尽くせるはずがないのだから、まだ先を見たい。一日ごとに、自分の知らない自分と出会う。苦しみの向こう側に、自分がまだ知らない自分が待っている。それが、人生というもの。

 

まだ知らない自分との出会いを求めて、今日も学び、明日も学び続けよう。