先日の川崎の通り魔殺人事件が、日本の地元であったこと。帰国時に通う教会にカリタスのシスターがおられ、学校関係の信者さんも多いことから、遠くから見守っている。
ところで、ラテン語で「愛」は"carità'"カリタ、と言う。
愛という名のカリタス小学校。学校の責任者たちが深い悲しみのうちにも、この不条理な出来事を静かに、必死に受け止めている姿が印象的だった。
そういえば「憐れみ」("compassione")とは、ラテン語で「共に苦しむ」con - patireが語源である事を思い出した。そして「慈しみ」(”misericordia”)とは、misere - cordia 憐れみ、心が語源。
それにしてもどうしてこんな理不尽なことが起こるのか?
容疑者は地元出身の50代、独身、無職、ひきこもり気味だったという。そうなる背景はどうだったのだろう?
本来、犯人が生きて逮捕•起訴され、刑事裁判に移行すれば、被害者参加制度を使って裁判に参加し、被害者の思いを伝えることもできる。けれど、容疑者自死により、その機会すら奪われた被害者は怒りの気持ちを発露する場がない。事件が起きた季節がめぐってくると心身に不調が出る「記念日反応」もあるという。このような事件に対し、いかに対応するかがこれからの問題であろう。
憤怒や悲しみ、いろいろな憶測やコメントがSNSを通じて飛び交うかな、そこに満ちているのは、まさに”Carità"(愛)の逆の「憎しみ」だ。しかし、そうそう人を赦せるものではない。
そこで、片柳神父様の「ゆるせない人のたまに」という祈りを見つけた。
『ゆるせない人のために』
誰かに深く傷つけられ、
憎しみから抜け出せずにいる人に
「ゆるしなさい」と言っても意味がありません。
傷が痛み続ける限り、
憎しみがやむことはないからです。
むしろ、その人の傷が癒されるよう祈り、
その人のくるしみにそっと寄り添いましょう。
皆様の上に神様の祝福がありますように。
