人皆知有用之用而莫知無用之用也 by荘子
『人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり』
一見役に立たなそうに見えるものが、実は大事だと言うことを知るべきである、という意味。
「主婦」というと、しかも子供大きくなったのに、外に働きも出ずに家にいると、無能だと思う輩がいる。イタリア語を勉強している、というと何を今更?と言われる。バールでおしゃべりをしていると、暇人と思われる。
いやねー、収入こそないが、すごい人間関係築いてるんだけど。爆 一人でスーパーやメルカートへ出かけ、誰にも会わずに一言も話さず帰宅することなんて滅多にない。イタリア人だとそれほど知り合いでなくても、自分のことはペラペラ話してくるから、意外にその人のバックグラウンドなどを知りやすい。なんでそんなにあの人のこと知ってるの?と聞かれることもあるが、だって勝手にあの人が教えてくれるんだもん、という類。苦笑
実は「余白」だって無用に見えて、逆に使わないからこそ価値が生じる、という見方もあるだろう。つまりあっても使わないけれど、それがなければ他が生かされない、という「存在価値」というものもあると思う。
そもそも役に立つ立たないとは、それを用いる人の主観と能力、判断があって用いているだけで他の人であれば別の用に用いる、ということもあるだろう。誰かの一方的な主観が、用を差別する、というのはいかがなものだろう。
学校で学ぶ全ての学科が、人生ですべて役に立つか?生き方につながるか?といったら明確に意味づけるのは難しいだろう。
個人的には、結局何をやっても無駄なものはないのだと思う。躓いて人以上苦労しようとも、何か意味がある。逆に受験対策のように強化を絞り、それだけを勉強する「無用の排除」に違和感を感じる。何が無用で、何が無駄なのか?その判断は誰がするのか?また、それは正しいのだろうか?可能性を広げるのではなく、思考を狭めてしまわないだろうか?
私は暇人だから(笑)そんなことばかり考えている。爆 仕事において、無駄を省くことは大切だけれど、効率のみに囚われて「無用の用」まで切り捨ててしまうのは、人間の幅を狭めてしまいそうだ。無駄も人間教育に必要に思えるのは私だけだろうか?