何年もオラトリオや夏のオラトリオを手伝ってきたが、昨年オラトリオに来ていた移民の暴動で怪我を負い、それからオラトリオを離れ、半年。
司祭には少し距離を置いて考えることも大切、と言われたが、先月バスの中でまた移民と衝突。(「殺す」と言われた!)自分の正義感から出たことだが、どうしても見て見ぬ振りはできなかったのだが、ある意味、ミラノで続く移民による殺傷事件、地元でみるオラトリオの子供達の悪事...家庭で躾けられていないのなら地域の大人が愛情を注いであげよう、と司祭は言った割に、関係者に役目を振るだけ...とってもやりきれない気持ちになった。自分の子供させ育てるのに苦労しているのに、どうして他人様の子供を育てられるだろうか?
司祭がもっと関わっていてくれたら...と思いつつ、まあ自分自身に負けたのかな?今はどうしても気分的に戻れない。何度もオラトリオの責任者やスタッフに戻ってくるよう言われ、折り紙のラボラトリオだけでも来てくれないか?とメッセージを貰ったがしばらく返事が書けなかった。道で子供達に会えば、ラボラトリオ来るでしょ?とも言われた来たが、言われるほど頑なになるというか...
「ごめんなさい。今年は行きません」やっと返事をした。
私をよく理解してくれている教会関係の方に、話をしてみた。あなたは周りの顔色をみる必要はない。(空を指差し)あの方の声を聞けばいい。その気になれないのは、その時じゃないのよ、と言われた。そうなのかな...と思う。
聖歌隊でも、何かと問題があり、歌って祈るために行っているのに、直接私に関わりがあることではないが、まあ教会内はいろいろと人間関係が複雑なのだ。同じ神を信じていれば問題ないか?といえば、やはりそこは人間。「自分」が強く出る。なにかと忍耐の限界を超え、波風が立つことも多い。
同じアパートに住むおばあさんが、地域の別のパロッキアに通っているので、「一緒にそちらに行きましょうよ。聖歌隊はあちらのほうが素晴らしいし。」と声をかけてくれた。確かにコーラスのスタイルが全く違い自由だ。だからといって、そこで教会を変える気にもならない。「そうよ、ここがあなたの場所なのだから」と前記の友人。
神様は、出来事を通して私たちに語りかける。何かが起こった時、出来事の表面だけを見て自分の都合のいいように解釈するか、それとも出来事の前に立ち止まり、出来事に込められた神様からのメッセージを読み解こうとするかによって、私たちの人生は大きく違ってくるだろう、と片柳神父様がおっしゃっていた。
確かにそうだろう。今、私が立ち止まっていることにはきっと「意味」があるのだと思う。
そういえば、「歩」という時は、「少し」「止まる」と書く。ここで、止まっていてもドロップアウトしたわけではない。
出来事の前に少し立ち止まることで、きっと神様は何かを語りかけていらっしゃるのかもしれない。「時のしるし」を識別することが大切だ。
「寛容さ」と「赦し」の心。そして「神への祈り」を忘れないよう教えて下さい。