信頼関係 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

普段火曜日の空手の稽古は、ヌンチャクのクラスに30分出てから、大人のコースを1時間半するが、今日は珍しく子供のクラスから出てみた。(トータル3時間)

 

前半の子供のクラスは幼稚園、小学校低学年の児童でいっぱい。ふざけたり、押し合ったり、まあぺちゃくちゃ手のかかる子たちが多いものの、スイッチがはいると付いてくる。そのスイッチのいれ方が難しいのだけれど、対子供との間でなんというかビビビ、という信頼関係というか繋がるものを感じると導き出すのが面白いなあ、と思う今日この頃。

 

長年オラトリオやチャリティーなどで子供たちに折り紙を教えてきているが、それと同じ。決して私がイタリア語がうまくできなくても、「こうやって、こうやって...」と教えるだけでも、好奇心を持って知ろうとしている子は付いてくる。そして手先の器用な子はすぐにコツをつかむのがうまいが、そうでなくても多少時間がかかっても基礎、というか基礎的パターンを習得する子は放っておいても自分で先に進める。そういう子たちは皆目が輝いているのだ。

 

子供のクラスは、付き添いの父兄が見学しているが、中には子供が見えないところで待っている人も多い。我が家は月心会に入会してからそろそろ4年が経とうとしているが、それ以前は別の流派の道場に通っていた。長男は6歳で空手を始めたのでなんだかんだ13年になるが、当時次男はまだ1歳。いつもベビーカーを押しながら週2回道場に通っていたものだ。

 

次男が伝い歩きをはじめ、待合室のツボは割るわ、ソファのクッションにジュースはこぼすは、いつも道場があるスポーツクラブのスタッフに謝っていた気がする。次男も小学校に入ってからそこの道場に入ったが、道場で入り口にある30cm四方のガラス越しからでしか稽古は見学できず、見ている親もお互いが邪魔にならないようチラチラみては、待合室に戻ったりして時間をつぶしたものだ。それでも稽古をしている子供たちは、ママが見てくれている!というのは安心感があったようだ。

 

今日の稽古でも「ママ、見ててよ〜。」といっている子がいた。ふと見ると母親たちはおしゃべりに講じていた。小さな兄弟たちをつれて来ていて、遊び道具を広げて遊ばせながら見ているのだが、どうも稽古側としてはそのおしゃべりが気になる限り...。小さい子が多少おもちゃを与えなくてはいられないのは別としても、やはりそこにいる限り保護者は自分の子供を見るべきだと思う。でなければ、外で待つべきだ。

 

ところで、先日の茶帯•黒帯指導者養成コースでは師範より、ある件をテーマにしつつ「褒める」「怒る」(私個人としては、あれは「叱る」ではないかなあ...と思いつつ)についての話があった。

 

褒められて、嬉しいか、ムッとするか。また、怒られて、むっとするか有難いと思うか、詳細は割愛するが、指導者と門下生との間に信頼関係があれば、ネガティブ的な感情は起きない、ということだった。それは上司と部下、親と子、どれも同じであろう。ただ、その信頼関係に気づいているかどうかによって、反応する感情も異なってくるのだ。

 

「褒めて育てる」教育法が望ましい、とこの二十数年言われて来たが、その子の問題点には目をつぶり、いいところだけを見て、ただ褒め続けるのが良い育て方だという誤解されているように思われる。それは子供をスポイルさせるだけの単なる甘やかしではないだろうか。

 

失敗からも学ぶことが大切であり、自分の失敗や課題に向き合わなければ、乗り越える必要もなく現状維持でよくなってしまうから、学ぶことも努力することも必要だと感じられなくなってしまうのだ。それでは成長する機会を奪っているだけ。

 

そういう意味では、我が家の子達には、「ママは人を褒めない」と言われる。認めていないわけじゃない。しかし、改善させようと思うから褒めないし、叱るのだが、そこには多少「飴」も必要なようだ。「認めることもなく、関心もない人に対しては誰も叱らないよ。「叱られているうちが華」なんだから」、と言っても今の時点では子供たちには理解できないらしく、「ママは鬼だ」と思っているようだ。苦笑。まあ、私自身にも、なぜ叱られているのか相手が分かるように伝えることが抜けていて、また相手の考え方や立場への配慮も欠けているのかもしれない。

 

人を育てるには、観察、理解、共感が非常に大切だと思う。最終的には「褒める」ことも「怒る(叱る)」ことも根っこは同じなのかもしれない。全ては信頼関係が必要。

 

人の成長を喜ぶ関わり合いをしていきたいと思う。