毎週日曜日の福音(ローマ典礼)を毎週火曜日2日遅れて聖書の会で読む。
ミラノのアンブロジーノ典礼とローマ典礼では、朗読箇所が一緒のところは、年間でも数えるしかないので、地元で日曜日のミサに出ても、パパ様司式のミサは違う朗読内容だったりするのだ。なので、聖書の会では、その典礼の復習とパパ様のお説教やミサ後のサン・ピエトロ広場にて行われるアンジェラス(お告げの祈)を一緒にシスターと日本語で読む。
先日の日曜日の第2の福音はイエスの弟子の一人であった聖パオロのコリント教会への手紙だった。(1コリント12:31-13:13または13:4-13) イタリア語では”inno di Carità"と呼ばれるところで、「愛の讃歌」と訳そうか。
有名な箇所だが、「愛」をたった数行で書いたもので、その最初は「寛容」から始まっている。
愛は寛容なもの、
慈悲深いものは愛。
愛は、ねたまず、高ぶらず、誇らない。
見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、
人の悪事を数え立てない。
不正を喜ばないが、人と共に真理を喜ぶ。
すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ
大辞泉曰く、「寛容」とは、心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などを厳しく責めないこと。また、その様、とある。
自分の価値観の正しさを頑に信じすぎていると、他者に対して自分の価値観を強要したり、結果的に他者に対する寛容性が損なわれることが多々起きる。
逆から考えれば、自分の価値観に執着がなければ、自分の価値観を他者に強要したりしない。寛容というのは、そういう意味なのではないだろうか?
寛容を、「他者に対して優しくすること」だと捉えてしまうと、相手を思うからこそ、という正当化で自分の価値観を強制することは、実は全くもって”寛容”ではなく、更にはもっとも遠い行為ということになってしまう。
先日、小4女児の父親から受けた虐待で命を落とした事件は、防げた一件だと思うし、ただただ悲しく思う。
子供に手をあげることに対して、とても繊細に扱われる時代だが、大人になって、親になったからといって、そういきなり寛容にもなれないし、キャパシティも急には広がるものではない。
どこか常に他人の行動や言動が許せない、人に優しくない「不寛容」な人が増え、たちまち不寛容な社会になってしまった。つまり、相手の立場になって考える余裕さえなくなってしまったということ。
そして、こらえても、信じても、望んでも裏切られることもある。その時、残るのが耐え忍ぶこと...。耐え忍ぶのも辛いなあ。聖書の会からずっと心を引きずっているこの「寛容」性。
自分で自分の日記を検索してみたら、2013年にもうだうだ言っていた。苦笑
様々な集団の中で共存していく場合、その差異を認めるということは、最終的には,相手を受け入れること、つまり自分をしらないと出来ないこと。寛容という美徳は困難なだけに高貴な徳なのかもしれない。
やはり基本は、人を許すこと。というか自分がされたくないことは人様にはしていけないし、そして先ずは自分を知ること、人に流される自分ではないか?人の目を気にしている自分ではないか?と知ることではないか...
堂々巡りは続く...
