多様性について考える 〜 「普通」って何? | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

シスターの老人ホームにいるシスターPは私に、「あなた何人?」とよく聞いてくる。シスターにとって、私は日本人でもイタリア人でもないらしい。

 

日本人ですよ、と答えると、宇宙人だと思ったわ、とよく言われ大笑いしてしまう。たしかに感覚的にはちょっと変かもしれませんね、と私。

 

「あなた、普通の日本人じゃないわね?髪は変だし。」とまたシスター。「普通の日本人って何ですか?」と聞くと、あなたはいつも問題意識を持っていて、どこかしらに必ず顔を突っ込んでいる。でもそういうの好きよ、という。褒められているのかけなされているのか、全くわからない。

 

ちなみにシスターご自身は「小さい頃から人が好きだったの。あなたもそうでしょ?同じ匂いがするのよ。」とおっしゃる。人と違うことを認めるのが多様性。尊重することが大切なんですよ、と言いこういう話、日本語でできるの楽しいわ〜と言われる。

 

ところでたまに、他人を自分の持っている物差しで測って、こうあるべきだ、と決めてしまう人がいる。加えて、当然のことや当たり前のことをしない、できていないからまともな人間ではない、と言い切ってしまう。それってどうなのだろう?

 

ミラノは人種のるつぼだから、日本にいる以上に宗教や国籍、学歴、価値観の違いや性的マイノリティーの人たちとの出会い、また家の前に障碍者の学校や施設があるので、手足がなかったり、電動車椅子で移動している人たちとも出会うことが多い。

洗濯物をテラスに干していると、叫んで私に声をかけてくる患者さんもいるし、歩行困難な人たちも普通に歩行器を押して生活しているのだが、その数人とよくバスで出会うのでよく会話をするが、私を怪訝な目で見る人たちもいる。なぜなんだ?

 

世の中は、個性が出ている人を見るとすぐに変った人扱いをし、時に悪意を感じるほどの偏見で見ようとすることがある。本来、皆それぞれに異なる性質を持って生まれて来たものが教育や環境によって画一化されていて、それが当たり前になり常識として認識すると、そこから外れた人たちはみんな変った人となるのだろうか。そしてそういう人に寄り添う人も変わった人なのだろうか?

 

しかし、皆と同じだから安心、という安心感は尊重された安心ではなく皆から弾かれない、周囲から疎外されない、攻撃されないときの安心であり、自分のままでいいといった素の、自己安心感ではない。

 

この多様化の維持において最も大切なのは何か、それは、上記シスターが言われたように「尊重」することなのではないか。尊重される集団や組織の中では、異質なものがそれぞれに不安を感じることがない。言い換えるのなら、それぞれが自分らしくいられるということ。自分らしくいることで不安を感じない、つまりは個性を尊重し合っていて個性を誰も潰さない関係があるということ。

 

私は、シスターと色々な人間関係の話をしていると、自分らしくいられる、自分を殺すことなく不安にもならずいられる、つまり「変わっている」「異質」というのは、褒め言葉であるように思うこと自体、変わっているのだろうか?爆

 

世の中、豊かさをもたらす多様性を目指したいものだ。