私達は、知らず知らず「誰か」に頼っている。例えば、道にゴミが落ちていたとする。ゴミに気付いた時に、すぐに拾ってゴミ箱に捨てられる人はどのくらいいるだろうか。たいていの人は「誰かがやってくれるだろう」と見て見ぬふりをするのではないだろうか。
「誰か」って、一体誰?その「誰か」がいつまでたっても現われなかったら、一体どうなるのだろう。
もし、目の前で人が困っていたら?
面白いことに、大勢の人の前でこそ、誰かを助けようとする行動をとる人は少ないらしい。このような「集団心理」を「傍観者効果」と呼ぶのだそうだ。
いじめに対し、見て見ないふりもそう。公共機関で妊婦さんやお年寄りがいる際、席を譲ったり助けてあげず見て見ぬこともしかり。また学校や職場などで、ここはもっとこうした方がいいと思うけど、意見すると角が立つのじゃないか? これをやった方がいいだろうけど自分がやらなくても誰かがやってくれるだろう...などなど。
思いつくことは沢山ある。
土曜日の空手の茶帯、黒帯の指導者養成クラスで、毎週、翌週出題する人を募るのだが、誰も手を挙げない。私の場合、(態度はでかいが!)一応茶帯の中ではニューフェースだし...ここは、子供に花をもたせた方が良いのでは?と思ってしまう自分もいる...苦笑。
「誰かになろう」とは、つまり、そういうこと。目の前に起こっている問題は、決して「誰か」の問題ではなく、「皆」の、そして「自分」の問題なのだ。他人の目は気にすれど、他人には無関心。それは悲しい。誰かの『目』の為に過ごしているとしたら、それで自分自身本当に満足できるのだろうか?
誰かの目に応える自分。楽な方に流れる自分。それよりも、自分の気持ちに応えられる、誰かに手を差し伸べられる、自分の為の自分の方がいい。変われるかな?