読みかけの本「貧しき信徒」をパッと開いて読んでみる。毎日適当に読んでいるので、薄い本なのに決して終わらない。
「貫ぬく 光」
はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかったのです
ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたえました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福(いわわ)れながら(by 八木重吉/「貧しき信徒」新教出版社)
この詩を読んで、子供の頃訪れた高村光太郎氏が疎開先で住んでいたという高村山荘の厠の戸に細工されていた明かりとりの「光」という文字を思い出した。
私が実際見たのは、外からで、通常内部は非公開なのだが、なぜかその「光」という明かりとりから光がふりそそぐ光景が想像でき、そのまま脳裏に焼き付いていたのだ。
哀しみの光か...。
創世記はこう始まる。
はじめに、神は天と地を造られた。 地はむなしく何もなかった。やみは深淵の上にあり、神の霊は水の上をおおい動いていた 。神が、「光あれ」と言われると、光があった。
上記一行を受けて「はじめに言葉があった」と書かれたことは、ヨハネによる福音書の冒頭で明らかになる。
ヨハネによる福音書 / 1章 2-3節
初めにみ言葉があった。み言葉は神と共にあった。み言葉は神であった。••••み言葉のうちに命があった。この命は人間の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。
光とは、「希望」であり「善」であると思っていた(思いたい)が、重吉にとっては、人の在り方の原点を「哀しみ」=「光」と捉えているようだ。
人間の寂しさや哀しさを見つめ、それを自分の痛みのように痛み憐れむ...詩人の資質なんだろうなあ。感受性が豊かでないと、繊細に物事感じられないだろう。
いや待てよ、人は幸せいっぱいの時よりも、哀しみや苦しみがあった時の方が、より一層人の優しさがしみてくるもの。光も、また暗闇を知ってこそ、初めてその光のありがたさが身にしみるのかもしれない。
孤独は、「人」に向かい、暗さは、「光」へのセンサーを磨く。
毎日重吉の詩を一作品、読んで考える。
「生」と「死」。「闇」と「光」。
悪天候が続くミラノ。光が恋しい。
