煉獄 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
 
 
今日11月2日は、「死者の日」。
昨日は「諸聖人の日」であったが、今日「死者の日」では、神に仕えて亡くなった全ての人を思い起こし、死者のための祈りを共にする。地上の「生」を超えた命に、私達の心を開かせてくれるのが今日の典礼。
 
カトリックの教えによれば、来世には天国と地獄だけでなく、清めの場として「煉獄」というところもあると考えるらしい。「場所」と言うより「状況」だろうか?
 
ところで、いつも訪ねているシスターPは、「今」この時が、彼女にとって「煉獄」だというのだ。ご自分の所属する修道院の本部で最期の時を迎える覚悟で3年前にこちらに来られたのだが、今までずっと教師でこられたので、付き合うのはほとんどが生徒と教員達。しかし、ここに来て毎日過ごすのはほとんどがシスター。看護婦もシスター。ご飯を作るのもシスター。しかも若い人がおらず、彼女に言わせると、下界(一般社会)を知らない(?)シスター達との付き合いは「煉獄」だというのだろうか?笑
 
そういえば、最近シスターPのところへ訪ねて行ったところ、偶然友人が3人来ていた。シスターの自叙伝を書きたいねと皆で話し、なるべく昔のシスターの思い出話しや活動を聞き出しているのだが、偶然にも洗礼前にしていた活動の話を聞くができた。
 
たまにシスターはご自分を26歳とおっしゃる。それは洗礼を受けた歳なのだが、洗礼前にシスターは死刑宣告を受け、その日が来るのを待つ拘置所の死刑囚を訪問していたそうだ。私はてっきり教誨師をしていたのか?と思ったら、シスターはまだ誓願どころか洗礼を受けておらず、いわゆるボランティアで彼らと話をしていたのだと言う。日本の数カ所にある拘置所を当時、仕事の合間、電車に乗り継ながら、話を聞きに言っていたのだそうだ。死刑囚から自宅に手紙をもらうことも多々あったとおっしゃる。今では一般人が出入りしたり、手紙をもらうとはありえない話。
 
さて、そういう死刑囚たちも、死刑執行される前日には食事など好きなものが振舞われるという。そして、大抵の人が涙を流しながらそれを食していた、と淡々と語るシスター。思い残す事のないように…という人情や、最期は『人として』終末を迎えさせたい、という事から拘置所でそういった事が行われるのだろうか?また死刑囚が流す涙の意味は?
 
シスターを訪問すると、よく「死」の話に到達する。「死」は怖いか?怖くないか?シスターは全く怖くないとおっしゃる。好きな事を沢山してきたし、ご自分を愛してくださったご両親の元に早く行きたいと。その話を聞くたび、私はどうだろうか?と考えてしまう。
 
死刑囚が涙を流すのは、彼らが自分らの過失(心の汚れ)に気づき、そういった霊魂が煉獄で清められたいという、思いの涙ではないか?と思うのは、甘い考えだろうか?
 
『主よ、わたしは深い淵からあなたに叫びます。主よ、わたしの声を聞き入れ、切なる願いの声に耳を傾けてください。・・主はわたしの望み、わたしの魂の望み。わたしはその言葉を待ち望む。』-詩編130:1-2,5
 
ところで、よくよく考えてみると、宗教で「赦し」があるのはカトリックだけ。だからカトリックは信用できない。あとから反省すれば何をしても良いのか?といった意見もよく聞く。いやいや、初めからそういう思いで悪い事はしないだろう。ただ反省をしても、過ちを繰り返すのが人間。
 
何れにしても、贖罪を終えれば天国に行ける、つまり「煉獄」という観念もやはりカトリック独特の世界なのかな、と思う。それをどう理解するか。
 
悔い改めて、少なくとも心の重荷はおろしたい、というのが人間の心情か?
 
夜中にブログをアップせず、一晩考えてみた。やはり、「地上」での「生」を力一杯生きるからこそ、最後は安らかに逝きたいと思うのだろう。
 
「神よ、みもとに召された人々に永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。主イエス・キリストのみ名によって、アーメン。」