愛される老人 〜 正のスパイラル | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
 
昨日、地元教会に隣接する学校のシスターのお一人が100歳を迎え、祝賀会が行われ出席してきた。
 
過去に在籍した司祭や卒業生らも集まり総勢250名でのお祝い。ミラノ市からもお祝いがあり、市長の代理の方が来られた。
 
私がそのシスターに初めてお会いしたのは10数年前の復活徹夜祭ミサ。最前列に座られ、ミサ中こっくりこっくりされていたのが印象的。その後その学校に現在も出入りしているもののシスターをお見かけすることはほとんどないのだが、昨日は車椅子でミサにあずかられた。やはり最前列だったが、彼女に向けられたお説教中もウトウト。微笑ましかった。
 
夕方にシスターPを訪ねにチェントロの養老院へ。ここのところ週2回訪ねているが、最近はずっとシスターの溜まりに溜まった日本語話したい病の聞き役に徹している。「ごめんなさいね。あなたに会うと私ばかり話してばっかり!」とシスター。そう、口を挟む暇もないのだ。笑 たまに、「あれっ先日言っていたことと違いますよ!」というと、「あらっそう?もう何も覚えていないから。でも嬉しい!嬉しい!嬉しい!」と子供のように嬉しいと連発。こちらも嬉しくなる。嬉しいという「正」のスパイラル効果。
 
それにしても、最近思うのは、年齢を重ねるごとに「人生が面白くなる人」と「愚痴や不満、不安が溜まっていく人」がいる。もちろん、誰しも自分の将来に全く不安がない人はいないだろう。でもそれをどう考え、どう行動するかで人生が分かれるように思うのだ。年をとるほどに「成熟する人」と「ただ老ける人」との違いはなんなのだろう?
 
心は多面体。だからいろいろな心のプリズムがあるのだけれど、それを理解せず目に見える部分でしか物事判断しない人が多いこと! また「〜してくれない」と人にやってもらうことばかり当てにする人。昔「くれない族」という言葉が流行語になったことを思い出す。人に期待したところで、相手には相手の思惑や都合があり、いつも自分の期待と一致するとは限らないんだな。

自分でできることをし続けるには、たとえ老いても常に自分を訓練しなければならない。 それは自分に対する危機管理でもある。 「〜してくれない」を連発する人ほど、自分の精神がどれほど老化しているか、意識してみよう。10代から「〜してくれない」を連発していたら、人生まずいよ!
 
損を引き受けること、「もらう側」から「与える側」になること。人間、いつ晩年になるかわからないが、どこかで与えることを知っている人はいきいきと過ごすことができると思う。よりよく生きる。それは完成に向かって心を成長させることではないだろうか?
 
思うように動けなくても、思うように話せなくても、人に愛されるご老人というのは、やはりそれまでの人生、人に尽くし、人に出会うほど賢くなる方だったのでは?と思う。
 
何事も面白がるポジティブ人間として生き続けたい。