「我は咲くなり」的生き方 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで31年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

以前、ロシアW杯・サッカースタジアムに於いて、日本人サポーターによるゴミ拾いが世界から賞賛されることがあった。本来、自分が散らかしたものはかたして帰る、それって当たり前なんじゃなの?と個人的には思った。

 

だが、「見習うべきだ」という意見と「現地の人の仕事を奪う」という賛否両論だったというから、驚いた。確かに、以前やはりミラノのサンシーロ競技場で数回カトリック関係のボランティアをしたことがあるのだが、人が出て行ったあとのスタジアムはそれはそれはひどかった。けれど、私がゴミを拾い始めると、「掃除をする人が別にいるのだから、やる必要はないんじゃないの?」と仲間に言われた。えっそういう発想? 彼らはそれでお金をもらっているのだから、彼らの仕事を取る必要はない、という考えなのだろう。

 

日本の教会はミサが終れば信徒が、ミサのしおりと聖歌集を元にあった場所へ戻す。出せば元のところに戻すのが当たり前ではないか?しかし、我がパロッキアでは皆そのまま置いて行ってしまうことがほとんど。祭壇脇の聖歌隊の席は、わずか20人弱。それでもミサが終れば、皆聖歌集としおりをおいてさっさと帰ってしまう。それらを準備してくれる人もいるが、そのままってどうよ!私は何年も何もいわずそれらを集め、元にあった場所に戻している。昨年くらいからある男性が、「ありがとう」といって近づいてきたので、手伝ってくれるの?と思ったら、私にどさっと残りの分を渡し帰ってしまう。しかし、ここのところ集め始める人が出てきたから、やってきた甲斐があるかな?と思うようになった。

 

とはいえ、お御堂の方はもっとひどい。本来なら皆が返すべきだが、そうでなければ、カテキズモをしている小学生とか中高生のグループにお願いし、率先して動いてもらうとか?というかそういう発想はないのだろうか?と思う。かたっぱしから片付け始めていると帰るに帰れなくなる。しかし、やはり片付けている男性がいた。かれはボランティアで掃除に来ている東欧の男性で、非常に敬虔な信者。いつも仕事の合間をみては、パロッキアの門のペンキを塗ったり雑草採りをしているのだ。

 

けれど、今日は珍しくお御堂には収集するものがなかった。やればできるじゃん!

 

ところで、先週はパロッキアのお祝いがあり、皆で食事会があった。だからゴミが大量にでるのは当たり前だが、日曜日の夕方には有料で掃除に来てくれている人がいる。(つまり仕事が必要な人に、少額でも仕事をあたえているのだが)なぜか私が月曜日にボランティアにでると、トイレは汚い。ゴミは溜まっている、ということが多い。さすがにそれに関しては文句を言った。仕事としてきている人が、義務を果たしていないのはおかしくないか? 先週、ゴミを7,8袋大袋で収集した。決して女性一人で運べる量ではない。これをオラトリオに来ている学生たちに運ばせてください、と司祭に頼むと彼が自ら捨てに行き始めた。えっなんで? 何か違うような気がする。

 

オラトリオは夕方4時から7時までの3時間だが、私がギリギリ到着すると、「遅いよ!」と文句をいう子供達。そして、「トイレ!」「バール!」と横柄な口を聞く。「他の曜日のボランティアがどういう対応しているか知らないけれど、ちょっとそりゃないんじゃないの?それって人にきく口のきき方なの?」「命令形ではなく依頼形の文章知ってる?」と聞く。逆に「お金もらってるんでしょ?」と聞いてくる子もいる。はあ?私はお金なんて1セントももらってません。いずれにしてもその口のきき方はないでしょ?あなたたちの両親は何も教えてくれなかったの?といってもニヤニヤ。本当に腹がたつのだ。もし、私がお金をもらっているとしたら、働くのが当たり前なのだろうか? 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、褒賞としてお金をもらいながら仕事をするのも無償のボランティアであろうが、仕事内容は変わらない。けれど、気持ちの入れ方が違うということがあっていいのだろうか?

 

また、非常に驚いたのは、ボランティアをする人は、相当暇人か何か魂胆があってしている、と思い込んでいる人が多いということ。

 

この夏、奇跡の幼児救出で一躍有名になられた尾畠春夫さんをスーパーボランティアとはやすが、きっと彼は有名にならずともきっと同じ人生を送っておられたことだと思う。まさに、「人見るもよし、人見ざるもよし、我は咲くなり」的生き方だと思う。

 

人に評価されたり、感謝されたり、応援されたら、謙虚に受け止め、逆に自惚れないようにする。

 

また、人に悪く言われても恨まない。何を言われても、たとえ人が離れていったとしても、焦ることなく、孤独を感じることもないだろう。

 

私には、天で見ていてくださる方がいるそれで十分だし、静かに遠くで、そっと見守り愛を注いでくれる人がいればもっとありがたい。

 

自分の心と体に耳を傾け、心の根をしっかりおろし、しなやかに、丁寧に自分を生きたいと思う。

 

上記、尾畠さんはおっしゃっていた。

 

ボランティアは恩返し

頂くのは「こころ」...

 

私の場合、移民相手のボランティアは何かと葛藤も多い。理想と現実のギャップがあまりにも大きすぎるのだ。それには受け皿である私にも問題があるだろう。

 

咲くも無心 散るも無心

花は嘆かず 今を生きる by坂本真民

 

今の私は嘆き過ぎか...涙