吉田松陰の言葉に「未見の我」という言葉がある。
未だ
見たことのない自分を
目指しなさい
心は熱く
一生に一度くらい
本気でやってみなさい
必ず達成します
運命を作りなさい
この「未だ見ざる我」とは、自分で見つけるものではないだろう。自分自身を模索し続け、出会いや経験によって、自分で作っていくもの。
以前も書いたことがあるが、私は中学生までは比較的、おとなしくクラスでも目だない生徒だった。(えっ何か?!)それが高校2、3年生の時の担任との出会いによって変化が訪れた。彼は体育の先生で、母と同い年のいいおっさんで陸上部の顧問であった。私はバドミントン部に所属し、毎朝朝練に出、午後はもちろん、週末も練習に明け暮れていたのだが、毎朝、家をでて近所の横断歩道で信号待ちをしていると、その先生が必ず車で横切っていった。もちろん、車に乗せてくれることはなかったが、手を振って去っていった。
私の努力を買ってくれたのか?学級委員を決める時、「おい、お前やってみろ!」と言われたのがきっかけでクラスをまとめたり、体育の授業で先生のアシスタント役のようによくこき使われ、やれバレーボールのサーブはこうする、テニスはこうやってやる、などと皆の前でやらされた。(そのわりには体育は苦手だったのだが...)
それまで人前に立つことが苦手、というか未開の分野であったが、一度やってみたら、まー快感!企画を出したり、まとめたり、結構楽しいし、自分に合ってる?と思うようになった。
社会に出てからも、職場は法律事務所であったが、なぜか宴会、旅行、イベント担当、職場の会報を書かされたりしながら、結構そちらの方が好き?みたいになってきた。上司が主宰するお料理教室も、仕事外でありながら買い出し、お料理の先生のアシスタントなんでも屋だった。いやいや適材適所発見。お給料もらいながら、こんなに楽しいことしてていいんですか?とよく言ったものだ。それも全て高校時代に出会った体育の先生が見出してくださったことだ。
ところで、いつも面会に行っているシスターパオラとの会話の中で「シスターパオラ語録」を作っておこうか?と思うくらい、毎回良い言葉をかけていただいている。
人生、沢山の人に出会ってきた。だから友達がいっぱい。死刑囚も皆友達になったとおっしゃり、吹っ飛びそうになったが、人の良いところだけを見て、悪いところ、興味のないところは記憶に残らないのだそうだ。笑 だからあなたも沢山人に出会って友達を作りなさい、とおっしゃる。
私は好きなことだけをしてきたの。だからあなたも好きなことをし続けなさいよ、と。
自分が考えて選び好きなことをする。それが間違っていたと分かれば、反省も必要だし、やり方を変えることも必要であろう。全てがありがたい、とおっしゃるシスター。自分らしい方法で自分探しをしながら、自分にしか生きることができない生活、人生を送ることができるのだろう。
自分にもこんなに良いところがあるのか、と今まで気づかなかった自分に出会う。隠れた才能や可能性が引き出されることは、新しい自分になった気がするが、本来はそれが自分自身であり、まだまだ氷山の一角なのだ。
画像は哲学者のデカルト。
「我思うゆえに我あり」
自分はなぜここにあるのか、自分の存在を考える事自体、自分が存在する証明なのでは?と思う。そして、それ自体、自分という存在や意識というものの発見であり、ここからまた新たな思想や哲学が生まれてくる。
自分を見つめ、自分を磨こう。ただなんとなく毎日を過ごしていては「未見の我」に気づくことはない。自分の無限の可能性を信じ、「未見の我」を発見し、「未見の我」と出会いたい。
