今年のはじめ、首相の「人として小さい」発言がSNSで話題となったが、その内容は別として、「人として」と、考える時は、念頭にあるのは、人として、人間として「どう在りたい」か?「どうあるべき」か?そういった理想や思い、願い、希望があるんじゃないだろうか?
科学や技術の発達によって人間に取って替わるものが発明され、痛ましい事件があとを絶たない「今」、人間の尊厳や愛とはなんなのだろうと改めて思う。道徳や倫理が軽くあしらわれ、揺るぎない「判断基準」がない人が多くなってきている。
それは、「人間として」生きる上での「徳」だと思うのだが、🎵そんなの関係ねえ(古いですね〜)なのだろうか?苦笑
求めるより与えること。例えば、ボランティアをしていても、何か下心や駆け引きがあるからやっているのでは?と見る人もいる、と聞いて驚いた。なぜそう取るのだろうか?きっとそういう人は、人が信じられず、表面だけで物事を見ているように思われる。それも悲しい。
ところで、子供達がまだ小さかった頃、帰国中よくNHKの子供番組を一緒に見ていた。特に「にほんごであそぼ」は好きな番組で、特に詩のコーナーや、狂言、小噺のコーナーが好きだった。(私が!)また古典、漢詩•漢文などなど、声に出してみるのも非常に楽しかった。
『仁は人の心なり。義は人の路なり」』
これは、孟子の「仁人心也」という教え。
そして、「仁義」と言えば、儒教の五徳「仁義礼智信」も子供達と一緒に覚えたものだ。
「仁」 愛、慈しみ、思いやりの心、慈悲の心。
「義」 人の生きる正しい行い、判断力、恩義、義理(孟子は、「義とは人の正しい道、もし生と義が両方満たされない場合は、
生を捨て義を取るもの」と教えた。)
「礼」 礼節を重んじる、辞譲の心、謙虚に、社会秩序に従い、人を敬うこと。
「智」 考え学ぶ力、是非の心、知識や経験を通じた正邪の区別ができる知恵。
「信」 信頼、信仰、自分を信じ、人を信じる心。嘘をつかない、約束を守ること。
戦国将軍の伊達政宗は、この『仁・義・礼・智・信』という五徳を自身の経験を踏まえてこのように表現したそうだ。
仁に過ぎれば弱くなる。
義に過ぎれば固くなる。
礼に過ぎれば諂(へつらい)いとなる。
智に過ぎれば嘘をつく。
信に過ぎれば損をする。
政宗の時代には、きっと日本国民のほとんどすべてが、五徳に沿った生き方をしていたのかもしれない。
この五徳の心で、日々努力を重ねれば人として生きる道が律せるのではないだろうか。
人として人と出会い 人として人に迷い
人として人に傷つき 人として人と別れて
それでも人しか 愛せないby海援隊
(作詞武田鉄矢/作曲中牟田俊男)
人として人に傷つき 人として人と別れて
それでも人しか 愛せないby海援隊
(作詞武田鉄矢/作曲中牟田俊男)
いい詩だね〜。
