ここ数年8月15日の「聖母被昇天」ミサはイグナチオ教会であずかっている。
今回初めて、イグナチオ教会の主任司祭になられた英(はなふさ)神父様のごミサにあずかれた。
この「聖母被昇天」"Ferragosto"はクリスマスや復活祭に並ぶカトリックでは大切な祝日。
聖母マリアは14才でイエスをみごもり、15才で出産。それから33年間(イエスの死まで)一緒に暮らし、キリストの昇天後、12年間生き、60才で亡くなったと言われている。
イエス・キリストが天に上がることを「昇天」 (”Ascenzione”)といい、聖母マリアについては「被昇天」("Assunzione")と違う表現になっている。これは、「神の母」といえどもマリアは人間だったので、キリストのように自らの力で天に昇ることはできず、キリストによって天にあげられた、ということで「被昇天」。確かに絵画作品でもマリアは雲や天使に囲まれて「運ばれていく」図になっている。
ちなみにマリアの被昇天は、ラテン語で”assumptio”(イタリア語は”assunta”)と言う。もともと「受け入れること、迎え入れること」という意味。
この日の福音は、ローマ典礼、アンブロージオ典礼においても毎年、ルカ1章が朗読される。イエスを身ごもったことを知ったマリアが親戚のエリザベトを訪れる場面、「マリアの賛歌」として知られている「マグニフィカト」。
...主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
神のご計画、救い、そして主のみ旨を受け入れることが幸せであり、心の平和が世界の平和につながる。
ところで、この身に起こることを「受け入れる」ということは、時によっては非常に不可解で、受け入れ難いことも沢山あるのではないだろうか。
人間関係のトラブル、失敗や挫折、災害や事故、病気やケガ、別れ、大切な人の死・・・。決して「受け入れる」ということは、「納得」することではないだろう。または「消化」でもない。
マリアがこの身に受けた出来事を、わからないなりに受け入れた。つまり呑み込んでしまったことに私はマリアの勇気をたたえたいと思う。そして神への信頼。
わからなくても呑み込む・・・すると不思議なもので、見えなかった事実がわかってきたり、自分の思い込んでいた部分にも気付けたり、行き止まりのように思えた壁に、新たな道が見えるようになるもの。
『老子』第71章「聖人不病、以其病病、是以不病」
幸せの達人は不幸にならない。不幸は不幸として心静かに受け入れるから、不幸な気もちにはならないのである。
現実を受け入れる心を持つ、ということは大切。
たとえ揺れても、風が止んだら立ち直る柳のような、しなやかな強さを持って生きたいものだ。

