言葉は人柄 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

知り合いに、カーッとなるとすぐに「バカやろー!ぶっ殺してやる!」と口癖のように言う人がいた。知る人に言わせれば、甘やかされて育てられ、思い通りにならないとすぐに暴言を吐くけれど、本当は小心者だという。それでもその言葉を耳にする度、嫌な気がしたし、その人を好きになれなかった。

 

また、子供の頃、テレビで「なんだ馬鹿野郎」というギャグが流行っていたけれど、志村けんさんのギャグかと思っていたら、荒井注さんのギャグだったのね。ドリフの学校コントで、「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」という設定で「何だ、バカヤロウ!」、「文句あるか!」、「何見てんだよ!」という言葉が流行語になったと言う。今でいう逆ギレ芸の先駆けだが、ギャグとして思えばいいが、実際の生活の中でそう言った言葉を耳にすると、やはりいい気分はしない。

 

ここ数年、オラトリオで中高生に触れ、何が嫌かというと、言葉の悪さ。何かにつけて暴言、そしてパルラッチャと呼ばれるいわゆるスラング、汚い言葉を発するのだ。

 

ちなみに、イタリア語の汚い言葉には英語で言う「⚪️ックユー」のような、いわゆる「ヤる」系のスラングが驚くほど少ない。いずれにしても、下ネタ系の汚い言葉が多い。

 

路上や公共機関でちょっとしたことで、口論になるのを見かけるが、最終的には汚い言葉の投げ合い。見ていて本当に気分が悪くなる。

 

人間は生まれてから死ぬまで、言葉の中で過ごす。家庭のコミュニケーションをはじめ、学校、仕事、全て言葉が不可欠、言葉こそこの世の中の基本。その言葉に、その人の心、性格、思考回路、人格そのまま映し出すのだと思う。つまり知性も感性も教養も人柄も全て言葉に集約される。

 

私も、もちろん自分子供にブチ切れれば、「ふざけるな〜!」とは怒鳴るし、常日頃から美しい丁寧語で話しているわけではないが、言葉は選び話し、書こうと思う。それでも、書くは話すに優らず。話すは思うに優らず、である。

 

とはいえ、オラトリオで見ている限り、汚い言葉を使う子供達は、申し訳ないが、本人の性格というよりも、育ってきた環境によるケースも多いように思われる。家族自体が汚い言葉を使うため、注意する人がいない。したがって、それが汚い言葉かどうか気づくわけもなく、学校や社会にでて指摘されても、その言葉を吐きまくるばかり。(多分、一般の日本の生活からは想像ができないかもしれない)

 

また、すぐに殴りかかるのも同様。注意し、ちょうど殴ろうとしたところ、手は止めるもののそのジェスチャーの真似をしただけだと言い訳をする。ジェスチャーつまり、人を殴るふりも良くない、と注意すれば、なんで?と聞かれる。なんで?って人を無闇矢鱈に殴っていいわけないでしょ?といってもなんで?と聞いてくるから、こちらの方が、なぜそう思うのか疑問に思ってしまうほど。結局何が悪いかを理解できず、言葉同様、人を殴ることが良くないと考え直す、きっかけがないまま育ってしまうのだろう。

 

この歳になっても、普段何気なく口にしている言葉が誤っていたことに気づいたり、指摘されたりして、正確な使いかたを覚えるのは楽しくもある。また、知らない言い回し、熟語だってまだまだあるのだ。そういった言葉や雑学を本やら話の面白い人から、インプットし、アウトプットして活かしていくことが面白い。

 

言葉遣いは心遣い。

また、言葉には力がある。言葉によって慰められたり、元気付けられたり、勇気付けられることもある。もちろん、傷つけられることもあるから、言葉遣いは心遣いなのだ。

 

いくつになっても、相手や状況に合わせてふさわしく、また正しく言葉を使えるよう心がけていきたいもの。