4月15日は私の12回目の洗礼記念日だった。
自分の洗礼と同時に、自分の教会に通いながら、在ミラノカトリック日本人共同体、ここ数年では地元のパロッキアの聖歌隊、オラトリオでの活動...と今に至っている。月に一度発行される日本人共同体の会報を5年書いていたが、会報は業務連絡ではなく霊性なものではなくてはいけない、と言われやたらカトリック関係の本やサイトを読んでいた時もあった。今では、やった分、経験と力になったと思うが、やはり大切なのは信仰心。
祈り、神との対話も大切だが、やはり生きている限り、人間関係は不可欠。つまり日々の生活の中で神と出会う。日常生活の中で、いかにキリストの精神で人に接し働くかが大事ではないだろうか。
この15日は日本人ミサで久々ローマ典礼でミサにあずかったが、第2朗読の使徒ヨハネの手紙は背筋が伸びる思いだった。
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らないものは、偽りのもので、その人の内には真理はありません。しかし、神のことばを守るなら、誠にその人の内には神の愛が実現しています。
と言っても、きれいごとばかりではない。わりに、日本人共同体では、人同士ぶつかることもなく、お互いが助け合って、尊重しあって、感謝することが多いのだが、これが地元の聖歌隊、オラトリオ...となると全く同じようにはいかない。人種が違うからか?笑
ところで、以前パパ様は、一般謁見にて受洗記念に関し、こうおっしゃっていた。
「私たちの受洗日は私たちの教会での誕生日です」
「人が教会に所属しているのは、会社や政党、または他の組織に入っているようなことではありません』
「その絆はとても大切です。ちょうど誰かと自分の母親との間にある絆のように。教会は本当にキリスト者の母だからです」
しかし、パパ様はこうも仰った。
「私たちは人が自分の母親を愛しているように、教会を愛しているでしょうか?また同時に、教会の欠点を知るすべを知っているでしょか?」
「どんな母親にも欠点はあります。誰にでもみんなあることです。でも私たちは母親の欠点について話そうとしても、かばいます。母親を愛しているからです」
「教会にも欠点はあります」
いやあ、確かに。保守的で、それでいて自分が正しいと思っている人が多く、相手を受け入れない人がどれだけ多いことか!教会内がこれじゃあどうするのよ、と常に思う。
そして、私の教会生活の中で一番の挑戦はやはり”オラトリオ”だ。躾されている、優しい子供たちの集まりだったらどんなに良いだろうか?と思う。我がパロッキアに関しては、ミラノの中でも特に特殊で、信者自体が敬遠し、カテキズモはさせても子供はオラトリオには通わせたくない、と思っているイタリア人は多い。我が家の場合は、子供たちの方から拒否反応を示した。国籍、宗教にかかわりなく、遊び場を求めてやってくる。家庭は子供を放置状態。言葉遣いは汚く、やたら喧嘩っ早く、やたら上下関係(だからといって上下関係に見られる尊敬や謙遜は見当たらず)に区別したがる...
喧嘩は日常茶飯事。ただ、どこまでが冗談で遊びなのか、本当に喧嘩なのかわからない。数週間前にはついに警察を呼ぶこともあった。ロム(ジプシー)の大人といってもまだ十代後半かもしれぬが、サッカーをし始めたが、ボールが司祭館の2階のテラスに入ってしまった。これは、司祭館の居間から外に出なければならず、それはだれもが勝手にできることではないので、そのうち司祭が片付けるから放っておいて(ボールはオラトリオのもの)といったにもかかわらず彼らは壁をよじ登ったのはいいが、どこから降りるべきかわからず、建物の窓を外から開けようとしているところを、主任司祭にみつかってしまったのだ。個人の建物に侵入したのならば、これは警察を呼ばなければ ならない、と司祭はいきり始めた。(少なくとも司祭がいたから私は助かったが、不在であれば私一人でどう対処すべきだったか、想像するだけでも発狂しそうになる。)はじめは、私が登っていいといった、というものだから、私もブチ切れた。私ははじめから絶対入ってはいけないっていったでしょ?と感情的になってしまった。そして、司祭もかなり感情的になっていたので、彼らは「知らなかった。あやまるよ」といってきたが、知らないはないでしょう?そんなの常識だわ!と思っても、一般常識は彼らには伝わらない。
そこで、今日はオラトリオをもう閉める!もうみんな外に出ろ!と司祭が感情的になってしまったのものだから、相手も逆上し始め、今日は帰らない!と言いだしたから、いい加減にしろー!と思ったものだ。その後もずっと平行線。一時が万事。彼らがやってくると、必ず何かが起きる。
ところで、家庭的な事情で近々、一時帰国することになった。日本の実家の事情、ミラノの家の事情、どちらをどうすべきか悩むことだが、全てが皆のためになる。ママ、行った方がいいよ、と長女が後押ししてくれた。特に子供達には、大変だが、日々の暮らしの中で見えていなかったことや自分の甘さを感じ成長していて欲しいと思う。
そこで、私の不在で一番困るのは、司祭だろうな...と思い、通告するのを躊躇ったくらいだ。他にだれがいる?最近、火曜日の担当者が、常々オラトリオに来る中高生の態度に辟易していたのだが、わざとではないにせよ、ボールが顔に当たったことがきっかけでブチ切れて辞めてしまった。その穴埋めさえできておらず、司祭が4時に門を開けても早く閉めてしまう。教会のお手伝い、いいですよ、と言ってくれる人はいても、オラトリオ、というだけで、あっそれは...と皆躊躇する。やはり移民やロムたちの顔が浮かぶらしい。
とにかく一筋縄ではいかない。未だに私の顔を見れば、「ニーハオ!」といってくる子もいれば、いちいち私の発音を真似しニヤニヤする子もいる。彼らが、学校で逆上した教師たちに悪い点をつけられ、下手をすれば留年させられるのも目に浮かぶ。
パパ様は、移民現象の本質には、人々が追い求める幸福への願望があるが、残念ながら、今世紀に入ってからの移民の動きは、紛争や、自然災害、迫害、気候変動、暴力、貧困など、やむを得ない理由によって移動を強制させられたものがその大部分を占めると話された。
パパ様は、特にこうした強制的な理由による移民の増加に憂慮を表され、これを政治・社会・教会など各界・共同体が協力して取り組むべき緊急課題として示されたが、そう簡単ではないし、綺麗事でもない。
彼らを締め出そうとする拒否の態度は、エゴや扇動的な大衆迎合主義に根差しているとし、無関心や怖れを乗り越えるために、人々が態度を改めることが急務と話された。彼らにも権利や尊厳があり、それを尊重すべきだと。
しかし、ある意味で私もここでは外国人。移民だ。けれど、郷に入れば郷に従え、のごとく努力もしてきた。その努力や人間関係の基礎である、相手を尊重する気持ちや躾もなっていない人たちに全てを与えよう、というにはかなり精神的ストレスを強いられる。またそこに使った税金のしわ寄せも、国民全員に来ているのは確か。
今日は、出発前最後のオラトリオであったが、何度どなり、喧嘩を仲裁したかわからない。私が不在中に来てもいい?と手を上げてくれた稀有な方が見学に来られた。ここ、サンシーロ地域は、貧富の差が激しい地域でもあるが、彼女は裕福な地域に住んでおり、しかも子供もいない。多分、ブロンクス状態の子供達に接触する機会など過去にないのではないだろうか?しかも、現在ある病気の治療中で薬があわずクラクラすると言っていたので、大きな声をだしたり走ったりすることは無理だろう。状況を見つつ、子供達の分析は鋭いものがあった。オラトリオの鍵を説明しようとしたら、結構です、と言われたので、まあ十中八九来ることはないだろうと思う。
とりあえず、それを司祭に報告。まあ私の不在時のことまで思い煩ってはいられない。少なくとも、普段私に丸投げだった司祭が、危機感を察知したのか?この2回ほどの面会ではかなり私の話も聞いてくれたし、オラトリオにも出来る限り時間を費やしてくれていた。
さあ、夏のオラトリオに向け、どうなる?!
「神よ、わたしを力づけ、急いで助けに来てください。」