老子〜 道 その1 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

カトリックのミサでは、聖書朗読配分は、主日(日曜日)と祭日のためには、3年周期で旧約と使徒書、福音書の3朗読が行われており(3年間で主要な救いの歴史と、キリストの神秘が記念されるようになっている。また、固有の季節(待降節から主の洗礼、四旬節から聖霊降臨)には、キリストの生涯の一コマ一コマに合わせて厳密に旧約聖書と使徒書が選ばれている)A年、B年、C年と順番にあり、A年にはマタイ、B年にはマルコ、C年にはルカというように、3つの共観福音書から主要箇所が朗読される。ちなみに今年はB年。

しかし、ここミラノがあるアンブロージョ典礼では、ABC年があるものの、朗読箇所はローマ典礼とは微妙に異なり、また平日は2年制と非常に分かりづらい。

先月、四旬節第一主日に、カトリック日本人会の司祭に是非、この四旬節は皆でマルコの福音書を読みましょう!と言われ、読み始めた。が、実際アンブロージョ典礼はマタイ福音書。両方を読むのは、流し読みとはいかないため、結構辛いものがある。

と、前置きが長くなったが、マタイの福音書を読んでいたら、老子の言葉に共通性があるらしいということを知った。宗教と哲学は似て非なるもの。救いがあるかないかにもよるが、「道」をどう捉えるか、その捉え方が面白い。老子の思想は「道」タオイズム。キリスト教は「創造主」を信じ、天の発想がある。

初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。(ヨハネ1:1) ヨハネは言語と論理を説いている。

けれど、老子の場合、ぼんやりとした混沌とした世界を「道」と説く。人智を超えた存在。まあそれをいうなら、信者とはいえ、かなりキリスト教もかなり捕らえづらく、ほとんど呑み込んでいる状況。笑

面白いので、時間があれば、老子を考えてみたいと思う。


第一章
原文

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

書き下し文
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。この両者は同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄 と謂い、玄のまた玄は、衆妙の門なり。


うーん、はっきり言って何言っているのかよくわからず。
>無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。
人間にはいろいろな欲がある。欲があるからこそ、振り回される。けれど、その欲がなければ、客観的に物事が見え、本質を理解しやすいということか。

 

無私無欲。

 

老子の考える「賢者」とキリスト教の「聖人」は無私無欲である人。結局これにたどり着くんだろうなあ。

http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_ABC.php