膝の故障で休んでいた空手の稽古に3ヶ月ちょっとぶりに復帰した。
1回1時間半。週4稽古で6時間。月に24時間。つまり3ヶ月強だが、年末年始の休暇もあったので3ヶ月として72時間。
私にとってこの72時間はどういう意味があったのだろう?と思う。
孤独の時だった。自分の声を聞き、平常心を心がけても、喜怒哀楽の感情は当然ながら出てくる。
それでもこの3ヶ月、父の容態や、様々な人間関係を通し、自分の心を観る力、他人の心を観る力が養われて来ていると思う。
心無い言葉に傷つくこともあった。けれど、余計な言動に走らない謙虚な心、反逆するのではなく、相手を思いやる心、礼を尽くす心を養う時間を与えられたようだ。
立ち止まり、焦らず、無理せず、無駄なく生きる。これは私にとって、最も苦手な事。立ち止まるなんて言語道断だと思っていた。
でも、それだと平常心は養えないんだな。
これから一ヶ月は、とにかく「体慣らし」のつもりでいるよう、週一稽古を強いられた。
初日の準備体操である鍛錬は、腕立て伏せ50回 腹筋1分。スクワット...特にきつくはなかった。まだ行けると思う。それが行けないのだろう。
型は皆とやったが、ほとんど別メニューで、ゆっくり運足をみながら体重がどうかかるか、どうすると痛みが出るのか、膝の向きや角度をみてみた。
体軸は、空手にとって基本中の基本。私の型には改善が必要で、体慣らしの間に根本的に見直す必要性がある。まずはゆっくり正確に自分の体の動きを確認しながら型を練らないと。
ところで、以前も書いたが「鍛錬」という言葉は、宮本武蔵の「五輪書」の中で「千里の道もひと足宛はこぶなり。千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬とす」と言うところから来ている。
「鍛」も「練」も辞書を調べると「ねりきたえる」という意味がある。その違いは、「鍛」は金属を打ち鍛えること「練」は絹糸をねることとある。また金偏の「錬」の場合は、金属に焼きを入れて硬質なものに鍛える、とある。
いずれにしても、千日の稽古は形作りで、万日の稽古はより繊細に、完成度の高い仕上げを目指すということだろう。
復帰をした日は、出席カード14枚。この約3年332日約500時間の稽古に出席したことになる。ふたコマ連続や帰国中での稽古は加算されていないし、自己練習の時間を入れればかなりのものになる。
「拳禅一如」。体と心は別々のものではないので、偏りなく修養させることで自己を見つめ、自己にある可能性を引き出すことができるという。体の修行と心の修行は常に一緒。空手は奥が深い。だから面白い。