気遣い | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
他人への 
気遣いで大切なのは、 
話を聞いてやることだ。
 
人間は歳を取ると、 
どういうわけか 
これが苦手になるらしい。
 
むしろ、 
自分の自慢話ばかり 
したがるようになる。 
だけど、自慢話は 
一文の得にもならないし、 
その場の雰囲気を悪くする。
 
それよりも、
相手の話を聞く方が 
ずっといい。( byビートたけし) 
 
考えてみると、私は今まで人の話を聞くよりも、自分の話をする方が多かったかもしれない。愚痴? 自慢話? 
 
確かに人の自慢話はあまり聞きたくない。特に、子供の自慢話。(そういえば、自分の夫の自慢をする友人はいないなあ。爆)以前は子供の自慢話を聞くと、落ち込むことも多かったが、今では”人は人”と割り切れるようになった。それも成長?!爆
 
ところで聖書には、「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」という言葉がある。論語の「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」。 自分が好まないことは、他人に対してもしてはならない、という意味は、上記の逆説であろう。
 
他人の立場に立つということは、必ずしも易しいことではない。特に自分が満たされていない時、私たちはどうしても、他人よりもまず自分の欲求を満たそうとするもの。また、面白くないと感じるもの。
 

けれど、相手の立場に立って考えることは、社会人としても人としてもとても大切なことだと思う。自分だけを押し通せば、人間関係は築けず、孤立してしまう可能性もある。別に媚を売って、好きでもない仲間なんぞいらない、人に優しくされる事など期待していないし、欲していない、という人もいるだろう。

 

けれど、良き家庭、良き仲間に触れ合わない限り、良き世界はあり得ない。

 

また、自分が高齢化した時、孤独なのは寂し過ぎやしないだろうか?

 

以前、修道会の養老院に入られた日本人の87歳のシスターを訪ねていっていた。週に一度、ほんの30分くらいだったが、逆に元気をもらう事もあった。ここ数ヶ月、シスターはご自分から聖書の会にも参加されるようになり顔をあわせるようになったので、養老院には伺っていない。

 

先日、別の養老院におられる80歳代の日本人の知人を訪問してきた。すでにご主人は他界され、お子さんもおらず、親類もミラノにはいらっしゃらないので、お友達の訪問をいつも楽しみにされているのだという。

 

始め何を話して良いのかわからず、お話を聞いていたが、徐々に「ねえ、あなたの事も話してよ。」と聞かれた。翌日も「楽しかったわ。ありがとう」とお電話でお礼をいわれた。

 

以前は、両親と話していたも、また同じ事言っている...と思う事もあったが、それも慣れた。上記のご婦人にもそれはあったが、私、今話した事すぐ忘れちゃうの。ごめんなさいね。自分の体がこうなるとは全く想像もしていなかったわ、とおっしゃる。

 

そう、誰でも自分が経験しないとわからないことが沢山ある。無私の心でしたことでも感謝されると、逆に癒されるもの。

 

気遣いは、決して特別な人に備わっている資質や性格ではない。いつでも身につけられるもの。相手のことを思い、ちょっとした言葉や態度、表情だけでも伝えてみる。それを繰り返していけば習慣になっていくのではないだろうか。

 

気を使いすぎても、使われすぎても疲れてしまいがち。けれど、相手の顔色を伺うのが「気を使う」。相手を思いやるのが「気遣い」。

 

気は使わないけど、気遣いができる人になりたいもの。