施し | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

スーパーで何度も万引きの様子を見かけたことがある。言い方は悪いが、いつも外国人。ロム(ジプシー)も多い。

 

先日も、ヒジャブを被った中学生くらいの女子が何かを持って、スーパーから走り去る際、大騒ぎになった。あいにくセキュリティのガードマンはトイレに行っており、自動キャッシャーにも常にスーパーの人間が立っているのに、その時に限って誰もいなかった。考えてみれば、私がキャッシャーにいた際、隣にいた子で、卵をキャッシャーに通していたが、卵が割れていたのか、それともお金が足りなかったのか?わからないが、支払いはせずスーパーの中へ戻って行ったので、商品を取り替えるか置きに行ったのだろう?と思っていたら、本来は入り口なのだが、ドアが開いた瞬間逃げた、というのだ。

 

そして、今日もそのスーパに行くと、自動キャッシャーで私の前にお昼時間だというのに、大きなバッグをもった小学生と母親が立っていた。ふと気づくと紙オムツが床に置いてあった。それほど大きなパックではないのに、バーコードを通して床に置くのも変な話だ、とは思っていたが、順番待ちではない女性がキャッシャーのところに入ってきて、何かを探しているような様子でウロウロし、いなくなった。???とは思ったものの、私の番が来て、その親子がいたキャッシャーに進むと、何かを探していたような女性がやってきて母子に声をかけ始めた。どうも私服のセキュリティの人のようだった。

 

つまり、紙オムツをレジに通していなかったことをチェックされていたらしいのだ。「払うのを忘れてました」と言って、結局支払ったのだが、見つからなかったら、そのまま出て行くつもりだったのだろうか。母子が出て行った後、スーパーの職員たちが、「たとえ、貧しいといっても、それは通じないのよ!」と言い合っていた。確かに、盗みは良くないが、なんか心に棘がひっかかる会話だった。

 

ところで、毎月、どの教会でも食料品をあつめ地域の貧しい人たちに配給している。次男の通う中学校でも毎月、乾物の収集がある。もちろん義務ではないが、ある協会(アソシエーション)を通し、貧しい人に配給されるようなのだ。クリスマスにも教会では地域のお年寄りや貧しい人たちを昼食に招待する。やっぱりクリスマスは寂しいよなあとは思う。

 

けれど、復活祭や年に数回、持ち寄りのパーティをパロッキアでする際、普段教会で見ない人もたくさん来ているが、がぶがぶワインを飲み、カートを持ってきて欲しいものをタッパーに詰め込んで帰る人の姿を見ると、寛大な心ではいられない自分が正直いる。

 

また、日曜日の教会の前では、大抵ロムが物乞いをしている。でも、これまた、どうも気が進まないのだ。小銭を握ろうならばすぐにタバコやお酒に変わり、また、どこでも構わずゴミを捨て、子供が学校へ行かなくてもお構いなしなのを知っているからだ。昨年、オラトリオにたまにくる子に道端で会い、元気?と声をかけたら、母親が出てきて「この子の妹に何か買うお金をくれ」と言われ、一度だけ2ユーロ差し出したことがある。しばらくその子はオラトリオで見かけなくなったが、先日、偶然道で会うと、「あの時は、ありがとう。母が感謝していた」と言われたので、悪い気はしなかったが、「スーパーに行ったらお金が足りなかったんで、また少しくれる?」といってきたのだ。その時は、私も買い物をした後だったし、お金もなくあげなかった。一度のことが毎回になるのは、どうなのだろう?

 

アッシジの聖フランチェスコは重い皮膚病の人を抱擁し、施しを与えだけではなく、彼らと共に暮らし、貧しい人たちのために自らを捧げる人々を数多く生んだ。

 

善業は見返りを求めない。だから相手がどんな人間であろうと、たとえ裕福でなくても自分より生活が豊かな人は自分を助けるのは当たり前、という態度を取ろうとする人がいようと、毅然と、また寛大に接する必要があるのだろう。そして自分も平穏な心でいないといけない。

 

昨日の黙想会では毎日「神様を探しましょう」とあった。神様とは、みことばの中で出会うかもしれないし、時によっては出会う人を通して神様がいらっしゃるかもしれない。

 

「施し」とは、大辞泉には、恵み与えること、またはそのもの。とあるが、イタリア語の「施し」”Elemosina"はギリシャ語の「哀れむ」という意味の”eleèo ”から派生しているという。

 

施しは豊かさの中からするものではないだろう。何か自分に必要なものを犠牲にして、痛みを感じながら人に与えるもの。そして、自分の時間を人々に与えることも、犠牲、そして施しになるはず。自分の良いものを、無条件に周りに配れる人間でありたいもの。

 

また、この四旬節、考えされられるテーマだ。

 

 

 

https://www.cbcj.catholic.jp/2017/11/19/14909/