現在、「オヤ」と呼ばれるアクセサリーを編んでいる。編み針は0.85ミリ。糸もかなり細いので、根詰めて編んでしまうと、目を始め、後頭部、首筋、肩、背中まで痛くなる。
花を20個x3色編んだが(3本分)今度は、糸に予めビーズを通し、葉を編み込みながら長さ2メートルくらいに編み上げていく。
何が大変?ってその始めに糸にビーズを通す作業が一番面倒。ビーズの穴が糸の太さより大きければ、問題ないが大抵は小さなビーズを使うので、穴が小さいためそうそう入らない。針に糸を通して、という事はまずしない。糸が化繊も混ざっているので、ライターで火をつけ、指先でよじって引っ張ると、糸がスーッと伸び瞬間的に固まるのだが、瞬間的にも熱いので、タイミングが合わないと、ボロっと切れ先っぽがかたまり、下手するとビーズの穴よりも大きくなってしまう。あちっ!あちっ!と言いながら先が針状になるまで繰り返す頃には、指先は熱に麻痺してしまう。
それを友人は「あなたって本当に自分を痛めつけるのが好きね?」と笑う。「ドMですから。」いや違う、鶴の恩返しの鶴と言ってもらいたい。じゃあ、誰に恩返し?
話は変わるが、この四旬節、断食や祈りの他に、犠牲を捧げる、というすすめもある。こう書くと、カトリックはなんとストイックな信仰か?と思われてしまうだろうか。
自己犠牲を神に捧げる、と言うと目を細める人もいるだろう。
犠牲とは自分の嗜好品を我慢することだけではない。自分の欠点を、敢えて出さないよう努力することも犠牲のひとつ。本能を抑えるということ。自分の小さな弱さと向き合うことも、四旬節の犠牲、祈りと行いの中で大切なことのひとつであろう。そして、私たちの成長にとって重要な機会。
無理を承知で、無理な我慢をすることは、決して「犠牲」の喜びを知ることはできないだろう。
今年は、「愛」の犠牲について考えてみたいと思う。本当の心からの喜びはなんであるか?
病める時に、病の苦しみや辛さを他の誰かの幸せのために祈りと共に捧げることもできるだろう。またその逆も然り。誰かのために、そして誰かと共に祈れる時でいたいと思う。
