カトリックのミサの中で、「平和の挨拶」というのがある。
日本では、会衆が合掌をして「主の平和」と唱えて一斉に、まずは司祭に一礼し、続いて前後左右の人たちに同様、「主の平和」と唱えながら合掌をし、一礼する。
私はイタリア式に、両隣の人と握手をし”Pace! (a te/Lei)"と挨拶をする方が好き。親しい人とだと抱擁を交わすし、夫婦は年齢に構わず両ほほにキスをする人たちもいる。いいなあ。理想だな..と思う。やはり夫婦がうまくいっていれば、家庭もうまくいっているだろうし、すべてが円満なのでは?と思えるのだ。
「連れ合い」も 10年経つと 「つれない」爆
そうそう、夫に手が触れようものなら、静電気の放電のごとく、殺気というか緊張感と共に、おおっと大げさに反応してしまうのは私だけ?爆
冗談はさておき、この握手でも力が入っている人と、そうでない人がいる。また私が外国人だとわかると、ふと気づかなかったふりをするような人もいる。保守的だな...と思うことが多い。
それでも、日本でも「平和の挨拶」を握手にしたら?とどこかで話が出たそうだが、衛生的な問題で否定する人も多かったとか。イタリア以上に閉鎖的。
ところで、今年に入り、司祭の一人であるドン·ファビオが司式の時は、必ずこの「平和の挨拶」の際、まだ知らない人、または顔は知っているけれど、話したことのない人を探し、「平和の挨拶」を交わすように、と2分与えられるようになった。普段私は、聖歌隊に所属し祭壇に向かって右側にいるので、前回は祭壇を横切り反対側にいる人のところへ行き、そこにいる人たちに自己紹介をし、握手を求めた。
今日はまた自分のいる祭壇側の人の方へ移動し、挨拶をして回った。4、5人挨拶したが、挨拶する瞬間に聞いた名前を忘れてしまう。ゲゲっどうしよう。先週あった人の顔は覚えていたが、名前がやはり思い出せない。「先週お会いしましたよね?」とだけ言っておく。名前を覚えるのは本当に苦手。
逆に私は、教会では唯一の日本人なので皆私のことを知っているが、意外に名前を覚えてもらえない。同じ聖歌隊のメンバーでも私のこと”Tomoto"と呼ぶ人もいれば、何度教えても”Yoko"と呼ぶ人もいるし、メッセージでは自動変換してしまうのか、”Romolo"と書いてくる人もいる。狼に育てられた、”ロモロ”と”レモ”の”ロモロ”じゃないって!!
一応、洗礼名は”Sophia”なんです。ギリシャ語の方の、と言っても、誰も呼んでくれない。苦笑
余談だが、「主の祈り」を唱える際、私達の教会では、両脇の人と手をつないで唱える。私、聖歌隊の最前列の端にいるので、大抵は、祭壇中心にいる司祭と直接手をつなぐことになる。
そして、祈りの最後の「...私たちを誘惑に陥らせず悪からお救いください。」と言って、祈りを確認するように皆一瞬手に力を入れるのだ。
日本で見知らぬ人に笑顔で挨拶しようものなら、何か勘違いされそうだが、こちらでは、目が合うと笑顔を振りまく人が多い。
知っている人にも、知らない人にも挨拶をする。見返りを求めず、人と接する。これが平和への基本の一歩ではないだろうか?
