「裸の木蓮」
相田みつを
いま庭の木蓮は裸です
枯葉一枚枝に残しておりません
余分なものはみんな落として
完全な裸です
しかしよく見ると
それぞれの枝の先に
固い蕾(つぼみ)を一ツずつ
持っています
木蓮にとって
一番大事なもの
ただ一ツをしっかりと
守りながら
冬の天を仰いで
キゼンと立っています
キゼンということばを
独占したかのように
裸の木蓮は
寒風の中に
ただ黙って立っています
〜 · 〜 · 〜 · 〜 · 〜 · 〜
近所で木蓮の蕾発見。あっ本当に裸なんだ!と初めて知った。
普段はこの木蓮の見事な開花に目を奪われていたが、毎年この前を通りつつ、裸の木蓮には気付かなかった。
そこには強さと美しさがあった。
人は、華やかなものには目が行くが、意外に、ひっそりと耐えている姿には気づけないのかもしれない。
けれど年に一度美しい花を咲かせる花々は、花を咲かせる前の姿が、本来最も美しいのかもしれない。冬の寒さに耐え、幹いっぱいにエネルギーを蓄え、その時をひたむきに待つ姿は静かに美しい。
ところで、イタリアにはこういった格言がある。
静かに行く者は健やかに行き遠くまで行く
しかし、その続きもあった。
強く行く者は死に出会う
後半部分は置いておいて、前半部分を考察すると、静かに心穏やかに遠くへ行く、つまり耐えて待ち前へ進む、と言う事か。
また、去年お亡くなりになられた日野原先生は著書の中でおっしゃっている。
≪耐えて待つ、ということは容易なことではありません。そんなとき、私は笹の葉を連想します。冬、雪が積もると、笹の葉は雪の重みでだんだんと撓(たわ)んできます。その状態で、笹の葉はじっと春を待ちますが、そのうちに暖かい陽射しが照るようになると雪が解け、葉は自然に元の状態に戻ります。
笹のように、人の心も時間が経てば、自然と戻るものです。ストレスを抱えたときには笹の葉を思うと、<笹のように、時間が経てば私も元に戻れる>と前向きな気持ちになれるわけです≫(『いのちの絆―ストレスに負けない日野原流生き方』抜粋)
そう、人も同じ。耐え抜くことで開花するものがあることを。静かに冬を耐え抜く木々を見かけたら、思い出したい。年に一度、己のすべての力を出す花々のことを。
儚く耐え、いさぎよい姿に生きる力を学ぶ。
