怠り | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

最近、聖書の会でよく話題に上るのが、「怠り」について。

 

「怠り」とは、カトリックでは、「思い」、「言葉」、「行い」についで「罪」の一つとみなされる。「罪」というのは、決して、人を殺すとか物を盗むとか、法に触れることだけではない。直接相手を傷つけなくても、自分の行動が、神に対し、隣人に対し、そして自分自身に対し悲しませたり、傷つけたり、大切にしているかどうかが問われるのだ。

 

そして、その「怠り」とは大辞泉によれば、①怠けること。怠慢。②怠慢から生じる過失、手落ち。③過失を詫びること。謝罪、とある。けれど、①と②にも通じる物はあるが、本来ならできることをしなかった「善」がそれに当たると思う。例えば、困っている人を見て見ぬ振りをしてしまった。人手が足りないのを知りつつ、自分の楽しみを優先して断ってしまった、などなど。

 

カトリックはストイックな人間の集団か?と言われれば、確かに自分に厳しいかもしれない。けれど、厳しさがあってこそ、人に寛大にもなれると思う。

 

ところで、我がオラトリオの子供達を見ていると、無気力、無関心、無感動、無責任、無作法な子たちが多い。いわゆる「五無主義」な子たちなのだが、何か言えば、何が悪い?自分の勝手だろう!と言われる。


人に無関心で生きることは、煩わしさもなく楽なのかもしれない。逆に人との関係があると生きづらくなることもあるだろう。けれど、人との関わりがない限り人間としての成長は見られない。我慢すること、耐えること、そして人を許すことを知らないから、すぐに暴力に走る。相手の体と心の痛みを知ろうとしない。愛を知らず生きること、それはとても不幸なことだと思う。

 

聖書の会の分かち合いで、怠りの話から、オラトリオのことを話していたら自然に涙が出ていた。シスターに「あなたオラトリオ嫌なの?」と聞かれた。「重いですよ。いろいろな意味で」と答えると「じゃあなんで涙流してまだ行くの?」と聞かれた。確かにそうだ。必要とされている、とは言っても、私がどうしてもいけなくなればきっと違う誰かを見つけるだろう。私の前任者はもともと辞めるつもりで私を紹介し、私が慣れるのを見届けてからオラトリオから離れていった。それなりの事情はあるはずだ。

 

ただ、私自身、できることを投げ出したくない。やっぱりストイックか?苦笑

 

また上記にもある「人を許すこと」。心を入れ替えること(回心)は簡単なようで非常に難しい。人は、他人を傷つけたことは、簡単に忘れてしまうが、誰かに傷つけられたことはそう簡単に忘れられない。現金なものだ。

 

遠くへ行かなくても、毎日の生活の中、全てが「一期一会」人との出会いを大切にしないといけませんね。と会のメンバーが言っていた。当たり前のことだが、心に響いた。日本語的では「犠牲」というと何か重荷を背負うイメージがあるが、本来「犠牲」は神への捧げ物。イタリア語の"sacrificio"はラテン語の"sacrificium" が語源。"sacrum" 聖なる + ”-ficium" する、行為。つまりは「無償の愛」。

 

上記の友人は、看護婦でもあり、人の生死を常に見ているのだが、「人の死に様は生き様にも通じるような気がする」と言っていた。

 

人生最後の真実として残るものは、やはり人に与えた愛と与えられた愛なのではないだろうか。

 

人生、楽しかった、だけでは終わらない。ありがとう、と言える人生にするためには、やはり人に与え、与えられるものがあってこそだと思うのだ。

 

自分は人に何を与え、何を与えられるのだろう?人生、最後に何が残るのだろう?