次男は日本では中学1年生だが、イタリアでは中学3年生。来年の9月からイタリアの高校に進学することになる。年明け1月半ばから教育省のオンライン登録が始まり、2週間後から希望校申し込みが始まる。
その前に今この時期、オープンスクールと呼ばれる学校見学真っ最中。彼が在籍している中学では、まず教授軍から高校のシステムや学科がどのように分かれているかなどの説明を受け、それから幾つかの学校の担当教授が直接来校し、希望の生徒や保護者に説明会が行われた。また、実際希望校のオープンスクールにも数校出かけてきた。
イタリアの教育は、就学前教育として幼稚園が3-5歳、というのは日本と同じだが、小学校が5年間。そして中学がある前期中等教育が3年間。後期中等教育が5年。うちはじめの2年までが義務教育になる。
後期中等教育には高校と高専や職業専門学校があり、その種類も非常に多いが、逆に日本のような無難な「普通科」というのがないため、13歳の時点でどういった道に進むか、というのを決めるのは、個人的には非常に早すぎて、万が一合わなかった場合、ほら言ったことじゃない!ということが多い。
また、中学は「6」以上の成績でないと卒業できず、最終の成績が進学する学校へ通達されるが、転校する際も、「いくつで中学を出たか?」と聞かれることが多い。それだけ重要。いくら6以上あれば、卒業とはいえ、「6」は最低のライン。決して6で喜ばないように。卒業するまであと半年、一生懸命頑張っていい成績をとるように!と某学校の校長から言われた。
と言っても、イタリアの学校には偏差値というものがないので、進級する際、あまり目安になるものがない。強いて言えば大学への進学率だろうか?偏差値も公には発表されないが、一応イタリアの平均は出て、それ以上、それ以下くらいはわかるようだが、「6」は最低だ!といった学校も平均を出すInvalsiというイタリア全国で行われる学力テスト(これは成績にはつかない)の結果がどうなのか?と説明会の際、保護者が説明するとイタリアの平均をちょっと下る、というから驚いた。いずれにしても、所詮、「平均」は「平均」である。
我が家の例をとれば、長女はもともと文学が好きだったので、「古典科」に進んだのは正解だった。文系だから、できなくても仕方ないといってしまえばそれまでだが、いつも物理や数学に引っかかっていた。しかし、「理数科」に進んだ長男はいつも数学や物理、ラテン語に引っかかる。どう考えても、選択の間違えでは?と言われ続けてきたが、本人は変えたがらない。除去法で言ったら、これしか残らなかったと言えなくもないのだが...
そういう意味では、大雑把でありながら変なところ細かく慎重な次男は、自分で適正テストを受け、機械工学か電子工学があっているという。次に芸術。はじめは芸術科の高校へ行くのかと思っていたが、絵を描いたり、ものを作るのは好きだが、それは趣味でもいい、と言いだした。まあ本人が興味があることを突き進んでいくことが何よりも大切。
ところで、中学まで成績がそこそこ良かった子が高校に入ると途端にがた落ちになる子がイタリアでは多い。今までは言われたことだけをしていれば良かったが、高校生以上になると、自分で時間をやりくりし、勉強していかなくてはならない。学科選びもそうだが、本来何をやりたいかわからない、という学生が意外に多いのだ。なので、高校で苦労する子が多いし、または高校もそこそこで卒業したが、その後何がしたいか、何をしていいかわからない、という学生があまりにも多く驚いてしまう。
「三つ子の魂百」まで、というが、やはり好奇心は、小さいころから身につけておくべきだと思う。また大抵、楽しいことをしている子は目がキラキラしているからわかる。あまりにも鋳型にはめてしまったり、厳しく育てると、自主性がなくなり、のびのびした子に育たない。
ここ十数年言われているのは、無感動、無関心な若者が多いということ。知的な面で優れていても、意欲が乏しければ、どこかで挫折することは目に見えている。それがどこで現れるかが問題。
魔の3歳だとか、4歳と聞いてきたけれど、今は「魔の思春期」どっぷり浸っている。毎日子供に当たられ、たまったもんじゃないが、親に反抗するのもある意味、「普通」の成長の流れ。これまでに親や教師から教えられてきたことが本当に人間として正しいことなのか、それらを疑い始め、自分なりの考え方を持つことも大切だと思う。
そういう意味では、親自身も大らかな心が必要だとつくづく思う。感情的になりついつい声を大きくなると、子供を脅迫するのか!と逆に威嚇され、またまた子供を非難したくなってしまう。挙句の果てに、状況を知っていながら見てみないふりをする夫に怒りが溢れる。
いかん、いかん!自分の心にわだかまっている醜い心が堂々巡りで怒りになってしまう。思春期の危機は、子供だけに限らず親の危機にも通じる。今、試されているんだなあとづくづく思う。
自分で考えて、自分のしたいことを選び出し、他人に頼らないで活動する「自発性」を促すにはやはり「好奇心」が必要。好奇心が旺盛であれば、意欲もあるはずだ。人格形成にはやはりこの自発性、つまりは好奇心が重要だと今になって改めて思う。もちろん、それに思いやりや優しさも人間として大切なのだが、オラトリオで見ている子供達は、あまりにも無気力、無関心、無感動、無責任、無作法な子たちがなんと多いことか!何が原因なのだろう?どうしたら良いのだろう?と常に頭を痛めている。
「育児」は「育自」というけれど、自分育て。自己変革の連続だなあと思う今日この頃。