座禅 〜 心のデトックス | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

空手の秋の大会を目前にし、座禅が行われた。かれこれ4-50人のイタリア人と日本人の老若男女の門下生が参加しただろうか。

 

約20分、道場の電気を消して、ろうそくの灯りのみを見つめ、座禅が行われた。

無心になるように!そう言われると雑念が次から次へと湧いてくる。けれど、ゆっくりろうそくの灯りを見つめ、自分の呼吸のみ意識すると、意外に頭から曇った霧のようなものが消える。

 

普段から風邪や病気をしやすい人。トラブルに巻き込まれやすい人。ストレスにどっぶり使っているような人は、たまに座禅をお勧めしますと師範が言っていたが、確かに心に余裕がないと、負のスパイラルから抜け出しにくくなることだろう。だから、心も体同様デトックスが必要。

 

あまりにも多くの雑用?を抱えている私でも、意外にその辺は、一度に一気に心身集中をするので、疲労もあるが、気持ちの切り替えが早く、寝不足にならない限りは、疲れをひきづるようなことは少ない。あとは、やはり静かなお御堂に佇むことか。

 

祈りのつもりでも、とりとめもない雑念に流されることもあるが、沈黙の中に心も体も委ねると、意外にざわついた心は落ち着き、静かになる。心を沈めると、いろいろなものが見えて来るのだ。静かな山の湖を見ていると、湖面に立つさざ波、差してくる光、映る雲など、普段気づかない細かいことに気がつける。毎日の生活も同じ。たまには、自分をみつめる静かな時間を持つことは大切。

 

ところで、以前師範は下記のことをおっしゃっていた。


>「武道」は「禅」と同じと捉えるなら、試合で勝って嬉しいとか負けて悔しいとかといったような心の「揺れ」は厳に戒めるべきではなかろうか。そこで、私は大会に出るということは座禅を組んだ時のように、一切他事を考えず心を空っぽにして雑念が湧いてもそれに執着せず水が流れるがごとく心を綺麗な状態に保ちながら無心で型を打つ。

今考えてみれば、夏の全国大会では無心で臨めたと思う。しかし、その後に新たに注意された部分は、あえて意識すると、別の欠点やら癖が出てきてしまう。もぐらたたきのように、一つ直せば、また別のものが出てきて、なかなか形にならない。

 

それでも2年前の大会での型(アナンクー)を見ると、基本は今と同じ型を打っているが、稽古の数だけ練られてきたなあと自分ながらに感じる。やはり稽古は数だと思う。

 

話は変わるが、先日、稽古の終わりにいきなり空手道訓2番を師範に当てられた。普段は子供しか当てられないので、まさか自分が当たるとは思っておらず上の空。夏前にイタリア人門下生に日本語、特に空手道訓や礼について説明してきていたにもかかわらず、いきなり当てられたら、頭が真っ白。あれれ...なんだったっけ?。師範にも「おいおいおいおい....」と言われ、焦ってしまったが、つっかえながらもなんとか返答したが、いやいや気は緩めてはいかぬと思い知った。苦笑

 

空手は己を見つめ、己を正し、己を磨くものである。

 

何事も動じない精神力、胆力は稽古なしでは育たない。また、空手の動きは「動」であるが、己を見つめる行為は「静」であり、この「動」と「静」が合わさって自分自身、人生を生きて行くために、技を磨き心を磨く。

 

ちなみに、空手道訓3番の

 

空手は人を倒すものではなく、人を愛し、己に打ち克つものである。

 

人に勝つのではなく、自分自身に打ち勝つ、自分の心に打ち勝つ。これが大事。

 

毎回大会が行われても、基本全員参加だが、参加しない人は毎回参加しない。勝負に興味がない、という人が多いが、勝負って人に勝つとか負けるのではなく、自分自身との闘いなのよ。なぜそれを避けるのだろう?と思うが、まあ他人は他人。私自身は思い切り負けず嫌いだが、単に人に負けるのが嫌いなのではなく、自分自身に負けるのが何よりも嫌い。自分に課した目標、約束、守りごと、これを目の前にして目をつぶりたくない、ただそれだけ。


子曰く、「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。」

自分に打ち勝って礼に立ち返ろうとすることが仁である。一日自分に打ち勝って礼に立ち返ることをすれば、世の中はその人の人徳に帰伏するであろう。仁を実践することは自分(の振る舞い)によるのであって、どうして他人に頼るものであろうか、いやそうではない。

 

大会まであと11日。平常心で臨めるよう、呼吸で心を整えたい。