座間市のアパートで9人の遺体が見つかった事件で、自殺志願者のコミュニティとなったSNSのあり方に疑問を持った。
お互いの気持ちや生存確認は「手紙」でしかできない時代があった。それが電話に始まり,携帯電話の普及。そしてメールが主なツールとなった。それでも音信不通の友人が多かったが、LINEやmessenger, whatsAppなどのツールで人との距離が一歩縮まった気がする。
そのSNSのあり方を考える。私はこのブログ「ミラノの日常」を2006年8月から書き続けているが、もともとは親や親類に自分や家族の状況を知ってもらうために書き始めたものだった。ミラノの日常を通じて、ミラノの生活、自分が考えることなど、何か伝えたいことを発信続けているのだが、人によっては、なぜ私生活を露出したいか?と思う人もいるようだ。
Facebook,Twitter, Instagram, Pinterest...各SNSによってフィルターも違い表現方法も違う。人によっては依存症になる人も多いことだろう。
そして、母もやっとLINEを使い始めた。家を出ている長女ともwhatsAppで連絡を取り合うが、お互いの都合のよい時間もわからないので、メッセージを送り,既読がついて反応を待つ。オンラインであるようならば、そのまま電話で話したりもする。
事件の話に戻るが、SNSで検索すると、多くの自殺願望の書き込みがある。死体遺棄容疑で逮捕された容疑者は、Twitterや自殺サイトで被害者たちと接点を持ったようだ。
孤独を感じたことがない人はいない。苦しみや悲しみを誰にも話せず、死を考えている人も多いのだろう。生きているのが辛いのが、誰かに話すのには相当勇気とエネルギーがいることだろう。そういう人にあった時、どう向き合えばよいのだろう?
SNSには、顔が見えない分、必ずしも善意だけではなく、悪意も入り混じっていることも考えられる。
自死を巡っては「死にたい人が死ねてよかった」という人もいるだろう。数年前に、長女の友人が自死した時の、お別れの会で、彼女の両親が入っていた新興宗教の代表者はその死を「自由」を選んだ、と言い私は大いに不信感を抱いた。長女も悲しみの中で怒り狂った。はっきり言える。それは違う、と。
弱音を吐ける居場所は必要だ。また、自分の苦しさをわかってもらえない孤独感は人の温もりに触れて抜け出せる可能性もある。もし出会っていなかったら、今、この世にいなかったかもしれないという大事な友人もいる。ただただ、生きていてくれてよかった、と思う。
祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。
「諸行無常」というとこの世のすべての物は移り変わるネガティブなイメージを受けるが、心痛も変化していく。そう思えば、少しは気が楽にならないだろうか?
また、先日ある友人に「一人じゃないよ」と声をかけたら、偶然その日の修造日めくりカレンダーには「大丈夫、君は一人じゃない」と書かれていたという。そこには、「大丈夫」という3つのすべての漢字には「人」という文字が入っているから、君の周りにはいつも、君を応援してくれる人、信じてくれる人がいるんだ。だから心配せず、真っ直ぐ前に進めばいい。大丈夫、君は一人じゃない。とあった。
「大丈夫」という漢字をしみじみ眺めて「人」という文字に触れてみた。
