言葉は人格を表す。
また、育った環境、家庭がみえてくる。
とはいえ、子供が友達と電話で話をしている言葉を聞いて、ぞっとした。マシンガンのごとくパロラッチャといわれるいわゆるスラングというか汚い言葉の連発。また、長男に入ってくるSNSがたまに画面上に残っていることがあり、一度覗いて凍ったことがある。これまた、文章ではなく、パロラッチャの羅列...
なんで?なんで?私でさえ知らないのに...といっても、子供の方が学校を通じ、ずっとイタリアの生活に入り込んでいるのだ。当然といえば当然なのか?
ところで、2年前に日本からミラノの老人ホームに入られた日本人シスターは当初、「あなた日本語が綺麗ね?」としょっちゅう言われたものだ。そう?日本語の適切な単語や言い回しが出てこないことも多くなってきたが、少なくとも、最近の流行語やら若者言葉は知らないし、周りの日本人も使わないから、ある意味言葉の進化?は止まっているのだ。苦笑
また、この地域に引っ越してきた13,4年前、家の近所の中華レストランへ行った時のこと。そこは、中華をはじめ、日本食、イタリアンもだしているお店で、ポポラーレと呼ばれる、低所得者地域のど真ん中。言っちゃ悪いが、近所のイタリア人がたくさん来ていたのだが、耳を疑いたくなるような言葉が子供のいる前で飛び交っていた。子供も全く動じない。
自分の子供の言葉を棚に上げてはならないが、子供の言葉使いを聞くと親の教育がわかるというが、まさにそう思った。
オラトリオに来ている子達も、まー酷いのなんの!
言葉の粗さから、その子は言葉の教育を受けずに育ったのか、親の言葉遣いを聞いて真似しているのか、その影響力を想像する。
オラトリオでボランティアを始めた頃、彼らの言葉の悪さにさすがに幻滅した。我がパロッキアのオラトリオに来る子たちは、移民やロム(ジプシー)の子達が多く、本来地域のイタリア人の子供たちはほとんどこない。習い事も忙しいだろうし、まずは彼らがいる、ということを嫌厭する家庭も多いし、我が家の子達もあそこだけは嫌だといってこないのだから、ではなぜそこで私はボランティアをするのか?ということになる。まあまずは自分の教会だし、司祭から逃げられなかったという事実もあるのだが...
まあ、始めはひどかった。私のことを”チネーゼ”(中国人)といい、発音を間違えようものならそれを真似する。すぐに喧嘩を始めるし、いうことは聞かない。あちこちに唾は吐く。ゴミは捨てる。どこの誰がするのかわからないが、盗難もしょっちゅう。それでも警察沙汰になるほどではないが、たまにパトロールが来て、あえてオラトリオまえに駐車し、ライトをかざすこともある。見張っているぞ!ということか?
学校でもこの子たちは、先生たちに見放されてるんだろうなあと想像はつく。さすがに腹がたつだろう!
とにかく殴り合いの喧嘩もしょっちゅうで力づくで止めに入ったことも何度もある。まだ細い中学生(日本の小学生の年齢)ならいざ知らず、それ以上になったら私の力ではどうにもならないし、下手したらいつかは殴られるな...と思うこともしょっちゅうあった。それでもT子は空手をやってるぞ!という噂が流れ、私が近づくとぱっとやめるようになった。爆
時期を見てオラトリオをやめよう、といつも思っていたが、最近子供たちの態度が変わってきた。一応私が声をかけるようになったら、返事はするようになったし、自分からするようになった子達もかなりいる。オラトリオ以外であって挨拶するのは、意外にロム達だ。
道端で顔見知りのロムの少年にあると、必ずと言っていいほど”ciao,Signora! come va?" チャオ、シニョーラ、元気?と声をかけてくる。それが平日だったりすると、なんでこの時間ここにいるの?学校は?勉強はどうなの?と声をかけると、行く気がしない、でも行かなきゃ...などと返事をしてくる。そうだよ、少なくとも中学は出ておきなさいよ!ほら、頑張れ!と声をかけると笑顔で手を振っていく。何人もそういう子がいる。
いつの時代も子供の教育は難しい。けれど、最終的に損をするのは子供達。より身近にいる親や身内、周囲の人間が、言葉の教育を考え、まずは子供より自分たちが学び、そして模範となって教えなければ。
自分の子供に対しても、口が酸っぱくなるまで注意する。親として「為すべきことを成す」教育が必要。
子供を育て、自分自身をも育てる。
それにしても、オラトリオ、きっついわ〜。