いつでもどこでも命がけ | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

人は生まれてから、死に向かって前進しながら生きる。
 
というと、悲観的に聞こえるだろか?
少なくとも後ろに進んでいるわけではない。どこを向いても、前へ進んでいるわけだが、肯定的に取るか、否定的(悲観的)に取るかは、その人次第。(生まれた環境にもよるだろうが、考え方の癖にもよる?)
 
仏教では、「生・老・病・死」が免れない4つの苦だというが、苦しみととるか、いつか向き合う現実ととるか、これまた人次第だと私は思う。
 
何れにしても、体があって実質的に生きる「生」と「死」の間には、ただただ時が流れる。それは誰に対しても平等。時は、「命」。いや、「命」が時、つまり「時間」といっても過言ではないだろう。だからこそ一期一会で、一生懸命、大げさに言えば、「いつでもどこでも命がけ」でいたいと思う。
 
そして、どんなときでも命がかかっているのだから、目の前の人に優しく、自分も楽しく生きる。それが私の思い。私の覚悟。

又、命をかけるなら不平不満、グチ、泣き言、文句は言いたくないもの。
 
けれど、起きて、学校へ行き、または仕事へ行き、食事をし、飲み歩いていても、テレビを見ている時も、ダラダラしている時も、すべて命がかかっていることを人は忘れがち。

以前、父が心筋梗塞で倒れ、一命はとりとめたものの、なかなかタバコをやめなかった。実際にはやめられなかったのだが。帰国中父と同じ、ホームドクターにかかっていたので、父のことをチクリ、そのままだと死にますよ!と脅してください!と頼んだことがある。爆

人は、余命を宣告されないと命の大切さに気づかないのだろうか。

 
ところで、江戸時代、鍋島藩の山本常朝の記した“葉隠”に、こんな一節がある。
 
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の一節が有名だ。
 
これは、死を美化したりすすめている訳ではなく、死の瞬間まで、この今を、死にもの狂いで一所懸命に生きる姿勢を説いたものだ。また、「武士道」の新渡戸稲造によれば、武士はいかに生きるかと同時に、いかに死すべきかを考える。武士には正しい生き方があるのと同じく、正しい死に方がある。これは命を粗末にしろ言う事ではない。無駄に死ぬ事は武士は犬死と言うのだそうだ。
 
松尾芭蕉もこう言っている。
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
蝉の一生は、よく知られているが、約7年近くも地中にいて、地上に出てわずか1週間ほどの命。明日死ぬかもしれないのに、その気配も見せずに、死の直前まで鳴き続ける蝉。
 
どんな時代でも、わき目も振らず一途に生きている人は美しいと思う。ここぞという時は、一心不乱、無我夢中で生きてみたい。