長男が、18歳になった。イタリアではこれで成人だ。
成人と言っても体だけで、まだまだ未熟。長女の当時に比べても、やはり男子は精神年齢が低く、何やってるんだ?と思うことばかり。
気の毒だが、彼の誕生日はイタリアではちょうど秋の新年度が始まり、学校関係呼び出しがかかる時期。その度に私は現状を知り、どっと肩を落とし、一応夫に状況を伝えると、無関心な返事しかもらえず更に気も滅入る。どいつもこいつも何なんだ!となる。
ところでこの長男、日本にいれば高校3年生。本来だったら大学受験に向けて必死なはずだけど国が違うとこんなにゆるゆるでいいの?とさえ思えてしまう。
ビートたけしこと、北野武氏曰く、
「人間の知恵や創造力は、壁や障害があってこそ豊かに発揮される。分厚い壁が目の前にあれば、子供は放っておいても、なんとかしてそこから自由になろうともがく。壁をぶち壊そうとする奴もいれば、壁の下に穴を掘ろうとする奴もいるだろう。壁の内側に、誰も気づかなかった自由を見つける子供もいるだろう。知恵や創造力で壁を乗り越えるところに、自由の喜びがある。何でも自由にやっていいよという世界では、知恵も想像力も働かせる必要がない。最近の子供にはやる気がないというけれど、それはそういうことの当然な帰結なのだろう。」とのこと。
なぜなのか、やる気がない、というよりもやる気が出ない若者も多いようだ。やる気を出さなくても生きていける環境(つまり親への甘え?)があるからなのだろうか?
ところで、今人生を振り返ってみると、18歳から20歳代前半はいい年齢だったなあとしみじみ思う。自分の好きな勉強をして、自分の好きな仕事もできてそこそこのお給料ももらえた。かといって、親元にいたから家計費は多少入れていたけれど、気楽さがあった。だから、子供たちも同じ年代、またはその年代に差し掛かり、青春を謳歌すべきだと思うし、文句は言ってはいけないと思う。ただ多少なりの成功と挫折は経験しておいたほうがよいだろう。それが後の人生の糧になるから。
就職に有利な学部を選び、そのために勉強する。それもいい。でも長い人生から見たら、ちょっと寄り道してもいいんじゃない?とさえ思うことがある。
また親に言われたからその道に進む。レールに乗った生き方も楽でいいが、実際の電車は脱線はなくて当たり前。でも人生においての脱線もないほうがよいが、それでも脱線の経験も決して無駄にはならないだろう。そして、その乗り越え方によっては器の大きさも変わってくるはずだ。
とはいえ、こちらイタリアでは、中学3年生(13歳)の時点でその後どういう方向へ進むか決めなければならない。日本のように普通科高校があり、数年後、専門に分かれればよいが、13歳の時点で決めるのは非常に難しい。しかも高校5年間は専門的な勉強をじっくりするので、初年度に留年し、選択肢が合わなかったといって変更するならばいいが、数年後になってやはり選択を変える、というのはかなり勇気がいるもの。
ちなみに、今現在、中学を2年生にしたらどうか?という変更案も出ているそうだが、人生ふるいにかけるのが早すぎるというのもどうなのだろうか?
何れにしても、親はそこを黙って見守る。書くと簡単だが、これまた非常に忍耐のいることだ。子育ては親育て、だと今朝友人が言っていたが、本当にそう思う。悩みは尽きぬが、子供を通し、自分自身を振り返る機会を与えられている。(そう思わないとやってられないが!)
経験を賢く生かせるなら、無駄な時間は何もない。by ロダン
人生という「時間」は限られている。特に10代、20代は貴重な時期。何事も挑戦し、失敗してもそれに学び、それを生かして更に挑戦することで、人の土台は作られるもの。だからその時期に、何を経験し、何を学んだか、それが自分の人生の行方や価値を大きく決めることだろう。
そして、やはり人生は常に自分との闘い。自分のやるべきことを見出して、それに打ち込み、その経験を生かしてどんどん成長してほしいと思う。
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