先日、ミラノの大司教に就任されたマリオ•デルピー二大司教の司牧書簡が先日10月10日に発売された。(Centro Ambrosiano出版, 32ページ、1.5ユーロ)
司牧書簡というのは司教が教区のすべての信徒、修道者、司祭にぜひ考えてもらいたいことを知らせる文書のこと。デルピー二大司教はミラノ大司教区の未来をどういう観点から考えるべきかということを、私達に示してくださっている。
ところで、タイトルの,”Vieni,ti mostrerò la sposa dell'Agnello" とは、新約聖書の黙示録(21:9-14)にある文章の一節で、「さあ、来なさい。子羊の妻である花嫁をみせてあげよう」、つまりそれはエルサレムのことを指しているというのだ。
大司教は、「信仰」と「生活」は切り離してはいけないという。神の業を眺め、賛美し、神の愛を受け入れ、具体的な歩みとなるようにする。
実際、日曜日にミサにあずかり、その日は満足感があっても、平日は学校や会社に出かけ、また家庭生活の中で、忙しさに流され、惰性の生活になりやすい。信仰の賜物に感謝し、祈りの上に一般の生活がなくてはならない。新しいエルサレムのしるしである教会の生きた石になるよう召命に応えよう、と大司教。
また、”sinodalità"という新しい単語に遭遇した。シノド、といえばシノドス、世界代表司教会議を思い出すが、もともと、シノドスとはギリシャ語で「共に歩む」という意味だという。それは空のスローガンではなく、命を与えるものでなくてはならない。
”sinodalità”の挑戦。”sinodalità”は霊の業でなくてはならないが、社会で問題になるのは、個人主義、目立ちたがり、無気力、諦観、沈黙、混乱などが挙げられる。それは教会内でもよくあること。個人的にも問題提起はしたいが、巻き込まれたくない、責任を負いたくない、と思うとついつい見てみないふりをしてしまう自分がいる。
頭ではわかっているのだが、やはり回心し、具体的な行いとならないといけないと指摘。責任から逃げ、人にやらせる人。やらないで文句をいう人はどこにでもいる。それが目に浮かぶとどうしても、やる気が失せてしまうのだ。
けれど、一般信徒の役割としてもっと熟慮することも大事。教会と信徒会、そして小教区、司教区との関係。毎日の生活に忍耐を持たなければならない。
そこで聖パウロの言葉を思い出す。
わたしたちの体には多くの部分がありますが、それらの部分が全て同じ働きをしていないのと同様に、大勢のわたしたちも、キリストにおいて一つの体であり、一人ひとり互いに部分なのです。(ローマ12:4-5)
私達が、教会の兄弟姉妹を選んだのではなく、神様が私達に兄弟姉妹を与えて下さった。皆、考え方も性質も違うが、この違いを煩わしいと捉えるのではなく、豊かな交わりのために、むしろ必要と考えるべきなのかもしれない。
最近、パロッキアのオラトリオ担当の司祭が変わり、良くも悪くもじわじわと変化を感じる。泥沼続行!(苦笑)で頭を悩ますことも多いが、信者としてどうあるべきか?より良く生きるためにどうあるべきか?とよく考える。
やはり聖霊の導きに任せ、委ねることが一番なのだろう。
主イエス·キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさん一同と共にありますように。(コリント2 13:13)
