先日、長男のミラノ日本語補習校の授業参観に出かけてきた。
3学期は、百人一首大会故に授業参観らしい授業参観は秋の今回の参観が、補習校生活の最後の授業参観となった。次男は途中で脱落。長女の時代から15年の補習校生活最後の授業は「漢文」だった。
『「春暁」中2の時やってるはずなんだけど、皆覚えてる?』と担任。高等部は縦割りなので全学年一緒だが、長男のいる高3のメンバーは声を合わせて「やってませーん!」と言う。嘘でしょ?やったじゃん!とぼそっと言った瞬間, 保護者の目が私に集中。あれっ?じゃあ 長女の時代かな?それとも私の高校時代???自信がなくなった。「えー、自分の高校時代のこと覚えてるの?」と聞かれ墓穴を掘ってしまった。実は、たまにFBのTLや自分のブログに漢文を載せるので、いくつか自分で読んでいたのかもしれない。苦笑
いつも、何か面白い本がないかなあ?と思い、補習校の図書館で本を借り、友達からも本を借りるが、いつも摘み食い程度でがーっと面白かった!というのがなかなかない。たまに、国語の教科書を読むが、授業では読解で、作者が何が言いたかったか、解釈として、その答えのはじめと最後の数語を選んで回答...なんてのは非常にナンセンスだと思う。理解することは大切だけれど、心に感じ、響くかどうかは各個人の問題。
ところで、私は小学生時代、よく詩の暗誦をクラスで競争していた。覚えたものは今でも言える。
海外で古典や漢文なんて勉強しては意味なんぞないのでは?という声もたまに保護者や生徒から聞くけれど、私は子供(若い)のうちから名文と出会って、それを覚え、身体に染み込ませることほど、その後の人生にプラスの効果を与えることはないと思う。決して、文章の意味はすぐにわからなくても、長い人生の中で、ふと意味のわかる瞬間が訪れることに意味がある。あの時やった!ということが蘇る。
けれど、受験勉強と暗誦文化は別問題だと思う。知識の詰め込みと味わう喜びは別問題。
コミュニケーションが豊かな人は、やはり人間に奥行きがある。ベースはやはり読書。音読だと思う。日本語の感性を養うというのは、やはり読書、音読、そして暗誦だと思うのだ。
また、私は物心ついた頃から、メモ魔であったので、好きな作家の文章などは、あちこちに書き込んであり、その文章を引用して書いていると、だんだん自分の考え、文章となってくるもの。言葉が身体にしみ込み、その後自分の潜在的な日本語力としていくのだろう。
身体に活力を与える言葉が単に古い文章であればいいか?というと、そうでもないだろう。余談だが、この夏、我が長男は映画「君の名は」に惚れ込み、数え切れないほど観ているようで、友達の家に遊びに行ってまで、皆に見せている様子。しかもセリフまで暗記しており、ブツブツ口ずさんでいるというから、あの国語嫌いだった長男も、「君の名は」との出会いで、何かが<心身のあり方?>変わるのかも!これは面白い!と思ったものだ。
歌詞でもいい。何か自分が大切に思い暗誦するものが重要だと思う。
知的文化というよりは、身体文化の継承。言葉が身体にしみ込み、技となる。言葉が人の内側から発せられる時、その人の存在感も増すような気がする。
若い方が吸収力は高いが、幾つになっても言葉、文章に触れることはできる。自分も含め、高齢化していく世の中だが、重要な生涯教育といっても過言ではない。