拳禅一如 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
 
明日の空手の大会に向けてじわじわ緊張してきた。口から思い切り息を吐き出し尽くせば、丹田が落ちて、肝が座る。これを繰り返すことによって心が落ち着くよ、と友人が教えてくれた。えっ息できないじゃん!と思ったが、息を思い切り吐き出せば、鼻から自然と空気が入ってくる。そんなことさえ忘れてしまっている。何事にも動じない精神力、つまり胆力は結局稽古なしでは育たない、とつくづく思う。
 
ところで、以前も書いたことがあるが「禅」は大きく分けて「天台禅」と「達磨禅」に、「達磨禅」は「南禅」と「北禅」に分類され、達磨は「禅」と「拳」を伝えたと言われている。
 
「拳禅一如」という言葉は、「拳」は肉体を意味し、「禅」は精神を意味しているという。体と心は別々のものではないので、偏りなく修養させることで自己を見つめ、自己にある可能性を引き出すことができるという。
 
空手道訓の第2条、
 
空手は己を見つめ、己を正し、己を磨くものである
 
空手の動きは「動」であるが、己を見つめる行為は「静」であり、この「動」と「静」が合わさって自分自身、人生を生きて行くために、技を磨き心を磨く。
 
また、空手道訓第3条の
 
空手は人を倒すものではなく、人を愛し、己に打ち勝つものである
 
は、自分自身に打ち勝つ、自分の心に打ち勝つ。自分勝手なエゴイストは、自分自身に支配されている、つまりその時点で負けていることと同じ。それが「空手」だというのだ。
 
負けず嫌いな私は、人に負けるのが嫌いなのではなく、自分自身に負けるのが何よりも嫌い。自分に課した目標、約束、守りごと、これを目の前にして目をつぶりたくない。
 
子曰く、「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。」
 
自分に打ち勝って礼に立ち返ろうとすることが仁である。一日自分に打ち勝って礼に立ち返ることをすれば、世の中はその人の人徳に帰伏するであろう。仁を実践することは自分(の振る舞い)によるのであって、どうして他人に頼るものであろうか、いやそうではない。
 
体の修行と心の修行は常に一緒。奥が深いわ〜