先月から空手のイタリア人門下生(私も門下生の一人ではあるが)に空手に関わる日本語を教えるようになった。
まずは、空手道訓の「空手は礼に始まり礼に終わる」という「礼」とは何か?という話を初日にした。生徒たちは、ただその言葉を呪文?または祈り?のように覚えているだけで、言葉の意味やましてや精神性などは知るどころか、疑問にも感じていなかったものが多く、とりあえず周りはその言葉にしたがい礼をする。が、礼をすると同時に「直って」などというものが多いので、呼吸もリズムもなく、合わせるのに大慌て。私は決して精神性など教えることはできないが、「言葉」の意味としてこう言った内容である、と説明すると、彼らも納得し、取り組み方が一歩変わる。(だよね?笑)
また、余談だが、日本人でも正面に誰もいないのに礼をするの?創立者に礼をするなんて宗教じみてない?という人もいて、そうとるか...と逆に不思議に思ったものである。
ところで、子供の頃、躾として習い、また子供にも教えたのは、挨拶だったように思う。立ち振る舞いや言葉使い。つまり「礼」。挨拶のできない子供は、親の躾がなってないのでは?と一時は傲慢にも思ったものだが、我が家の子供達はいつまでたってもモジモジ君。そりゃないだろう...いくらイタリアで育ったからとはいえ、師範にタメ口をきく、長男。とほほ...親の顔が見たいものだと言われようものなら、ただただ下を向いているしかない....涙。
ここ何年も子供達に折り紙をはじめ、ものを教えたり、関わっていると、「姿勢」のいい子、そして「眼」が輝いている子はやはり何かが違うと気づいた。特に「姿勢」は精神性を表すと聞いたことがあるが、人の姿勢を見るだけで、その人の生き方がわかるような気がするのは、気のせいか?
ところで、私はミサの際、聖歌隊に属しているので、祭壇脇に座っている。大抵最前列か2番目でも端にいるので、人からは見られる席に座っているわけだが、ふと気づいた時の自分の姿勢や足元に赤面してしまうことがある。疲れていても、だらけた姿勢でいると、どうしても集中力に欠けてしまう。背筋をピンと伸ばし、しゃきっとしていたいもの。ある意味、姿勢も体の表情であろう。良い姿勢を自分に課し、前向きな瞬間を重ねることで、より良い人生を歩みたいもの。
最近、父が脊柱管狭窄症で歩くのが困難になってきた。けれど、考えてみれば父は若い頃から姿勢が悪かったように思われる。もちろん、それだけが原因ではないだろうが...。
姿勢を決めるのは、背骨。背骨の状態が肉体的健康にどれほど影響を及ぼすか、そして精神的健康にも関係するか、考えてしまう。
また、心を正すことは姿勢を正すこと。「凛」と生きていたいので、やはりその心意気を姿勢にも反映させないといけない。