パパ様のミラノ訪問の興奮が冷めやらぬ日々でありながら、何か憂鬱も拭えない日々。
サンシーロ競技場では「堅信」の秘跡を準備中の小学生たちとの集いが持たれたわけだが、パパ様の到着を待っている間、前座として音楽あり、ダンスあり、またコメディアンであり俳優であるGiacomo Poretti(ジャコモ•ポレッティ)の教会のオラトリオで育ち、どんなにオラトリオが素晴らしいか、という話があった。あとから調べてみたら、彼は、非常に敬虔な信者であり、オラトリオで育ち、聖書や聖母への祈りがいかに人生に影響してきたかをあちこちで講演してきており、パパ様のミラノ訪問の前後に何度もビデオレターを送っていることを知った。
また、パパ様も講話の中で、パロッキアへ行こう。オラトリオへ行こう。と話された。
オラトリオとは、簡単に言えば平日の夕方や、日曜日や祝日に子供たちを集めて、遊んだり祈ったりする活動の場。3ヶ月ある夏休みも1ヶ月は昼食付きでタダ同然で解放しており、多様なプログラムがあり、毎週海だ、プールだ、山だ...と遠足まであり、私もここ数年、食事や掃除のおばさんから、ラボラトリオの先生、遠足の引率やら全てを担当しており、毎週月曜日も午後4時に門を開け7時に閉める間、掃除からバールでの販売、子供達の見張り、受付、全てを担当している。
ところで、今週の月曜日、そう、パパ様がいらした翌日、オラトリオにいると、とても上品なイタリア人の老婦人がやってきて、司祭に会いたいとおっしゃった。
「あいにく、司祭は現在カテキズモ中ですが、あと45分お待ちいただくか、私の方で承りますが。」というと、いきなり
「ここは、なんでこんなに外国人の子供達が多いのかしら?」とおっしゃった。
「ご存知の通り、ポポラーレ(低所得者地域)の地域も隣接してますから、そこの子供達がやってくるんですよ。私も一応外国人ですし!」と強調したのだが、
「彼らはキリスト教徒じゃないでしょ?なのになぜここにいるの?」と言う。あれれ?このおばちゃん、もしかしたら教会通ってない人?と逆に皮肉を感じてしまったくらいだ。
「オラトリオはキリスト教徒に限らず全ての人を受け入れてますが」とあまりにも優等生的な返答をしてしまったのだが、
「昨日、パパ様が来て、子供達にオラトリオへ行くように言ったじゃない?」という。
「ええ、もちろん、聞きました。私もボランティアでサンシーロには8時間おりましたから。」だんだん嫌味的な嫌な言い方をしてしまった。苦笑
もう、何が言いたいかは100%わかってしまった。
「一昨日、ここはしまっていたのに、門を乗り越えて侵入したアラブ人がいたようよ。」とシニョーラ。それは私も司祭も聞いて知っている。当日黙想会から直接オラトリオへ出かけたが、10分遅れたことで、やはり柵を越え、勝手に侵入しているアラブ人がいた。それは日常茶飯事であり、それを見つければ私も容赦せず叫んで注意はするが、彼らはへっちゃら。そして、「前日の日曜日もオラトリオ前でアラブ人の子供同士が喧嘩をしていたというじゃない!」という。それも誰が関与していたか、全部知っているし、直接注意はしている。
私自身も本当は頭がいたいのだ。アラブ系の子達が来ることで、汚い言葉を発し、乱暴なことをする子が多し、決まりを守らない。なので、本来私達のパロッキアの子供達が躊躇して来ない。(実際我が家の子達も、あの教会だけは嫌だ!といって来ない)また、いつか私も殴られるのでは?という思いが過ることもある。それはどうなのだろう?と思う。
間違えていけないのは、それは決して宗教的な問題ではない。イスラム教徒だから危険、近づいちゃいけない!というのは、間違った見方。ただ、アラブ諸国の子達は、それが文化?なのか、たとえそれがコプトのようなキリスト教徒であっても同じ。躾というか家庭での教育のレベルが、日本どころかイタリアのレベルとも全く違い、受け入れるのが非常に難しい。だったら、見張りに彼らの父兄も巻き込んだら?という人が多いが、それはほぼ不可能な話であろう。年に数回、教会全体で大きなフェスタをし、分かち合いの食事やひと時を持つとき、料理を持ってきて参加するイスラム教徒の家庭が数家族いる。特に母親は(特にモロッコ人)はモロッカンミントティをふるまってくれたり、ヘナという自然の染料材でタトウを入れてくれたりする。
でも彼女たちは、本当に少数派で、ほとんどの家庭は、子育ての放任が多い。Itamaでもアラブ諸国の乳幼児を7年間見てきたが、カルチャーショックの連続だった。
オラトリオ担当の司祭は、彼らに心を開いてもらいたいからか?彼らに特に近づいて声をかけていく。ただ本来身内という言葉を使うのも変だが、その子供達を放ってしまい、徐々に逃げて行かれてしまうのもどうなのだろう?と思う。私も以前、オラトリオであれば、子供を行かせるのも安心だと思っていたが、決してそうではない。以前長男が出入りしていた教会のオラトリオには、南米系の子供が多く(それで先入観を持たれても困るが)中高生でナイフを持ち歩いている子が多かったし、何度も喧嘩に巻き込まれ、オラトリオのガラスも割られた。
日本の子供達同様、習い事で忙しい子はオラトリオなんぞに来ない。なのに、なぜ私はそこでボランティアをするのだろう?(しかも、めっちゃ忙しいんですが!)なのになぜ、問題児にイライラ、モヤモヤ感を感じながらそこにいるのだろうか?
疑問と葛藤が残った。
2週間前、カテキズモをしている子供と保護者のための催し物があり、その後ミサにあずかったが、祭壇後ろ、つまり聖歌隊の私達の後ろのイタリア人の保護者たちのおしゃべりと笑いがうるさいのなんのって、ミサに集中できない。「子供より保護者の方が最悪です!」司祭へ文句を言いに行くと、苦笑いして、どうやって注意するか、その方法が問題なんだよ、と言う。今や、司祭も保護者を気にして発言する時代なのか?
信仰、信仰といって儀式が終わった会場はゴミだらけ。それってどうよ!
どーも、モヤモヤし、憂鬱でたまらない...
