「見失った羊」考察   | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

聖書の「見失った羊のたとえ」(ルカ15,1-7)は、迷子の子羊を肩に担いだ「善き羊飼い」がイメージとなっているが、以前パパ様は、このたとえ話はイエスの罪びとたちへの呼びかけと、誰一人失うことを望まない神のいつくしみを表すものとして話されたことがある。(2016年5月4日一般謁見)https://www.cbcj.catholic.jp/2016/05/04/8116/

イエスが語るこのたとえ話に登場するのは、羊飼い、迷子の羊、そして残りの羊の群れという3者であるが、この中で実際に動いているのは羊飼いだけであり、羊たちではないことにパパ様は注目された。


「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」。たった一匹のために、野原に無防備な九十九匹を残していくことが果たして賢明だろうかと考えさせる。


見失った羊を見つけた羊飼いは、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言う。神はたった一人の人でも失われることを望まず、その人のために決してあきらめない...そういった内容だ。羊飼いは「わたしは九十九匹まだ持っているから、一匹失っても、たいした損失ではない」と考えることもできるが、それに対して、まさにその一匹を探しに出かけた。なぜなら、彼にとっては一匹一匹がとても大切であり、特に最も助けを必要とする羊、見捨てられた羊がいたら彼はそれを探しにいくのである。


ところで、話は変わるが、私が所属する教会には、ある脳性麻痺の少年(19歳)マッテオがいる。先月「聖家族」の祝日で午後にお祝いの集まりがあった際、彼の家族による「信仰の告白」があった。その時、初めて知ったのだが、彼はPCを利用し、自身のブログを発信しているという。

 

そして、彼が書いた「信仰の証」のテーマは「見失った羊」であったので(そして、家族が朗読)、その一部を引用する。:


「見失われた一匹の羊を探しに行く羊飼いより偉大なものはいない。それは、羊飼いは問題を抱える人を世話しているからだ。それは、僕の家族がしていること、僕の面倒を見るためにしてくれていること。けれど、逆に僕も彼らをそうしている。多くの物事を理解する手助けをしているんだ。なぜなら、より大切な事は、壊れそうな、お世話することが必要な人に触れる時のみ理解し合えるから。真の存在の理由、それが愛であり、他者に対し有益な人生を生きる希望、そして勇気を理解できる。

 

壊れそうな人々は、真の生きる意味を理解させてくれる。僕らは皆、壊れそうなセンシティブな心をもちあわせている。けれど、決してそれを見せたいわけじゃない。

なので、多くの鎧で身に隠している。けれどこのセンシティブさを脱ぎ去り裸になろうとするならば、自分が優れているとか、人と違うという思い込みや先入観のない人の存在を見るに至る。


壊れやすい人は、常に走る必要がなく、多くを為すことはないが、光と真実の担い手として人に仕えている。」

 

ここで,家族愛、兄弟愛の歩みを考えさせられた。
見失った一匹を探す「かけがえのない愛」。そして、見つけるまでの探すという「忍耐の愛」。また、傷付いた羊をいたわるという「優しい愛」。

 

この羊飼いは、見つけた羊を担いで大喜びで戻ってくる。そして友達や近所の人を集めて、「一緒に喜んでください」と言う。本当の喜びとは、分かち合うもの。

 

喜びは、分かち合うからこそ、喜びなのだろう。

これから、少しずつマッテオのブログを紹介していきたいと思う。

https://matteonassigh.com/author/matteonassigh/