Giornata per la Vita ~ 命の日 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
今日2月5日、イタリアは第39回 "Giornata per la vita" 「命の日」と呼ばれる日であった。

「命の日」は、1978年にイタリアにおいて「中絶法」が施行されたことに反対を表明するために生まれ、2月の第1曜日と制定された。

妊娠中絶についての生命倫理学的議論に関しては、中絶を禁止すべきとする保守的立場、中絶は自由に行えるとするリベラル派、中絶に関し全称肯定も全称否定もしないという中間派の三つがあり、それぞれの主張を聞くが、生存権をはじめとして胎児の道徳的権利の考慮はどこにあり、母親として女性の権利だけが帰結となると、やはり首を傾げてしまう。自分がやむを得ない状況にならない限り、下手な意見を言うのもどうなのだろう?と躊躇しがちだが、感情的になる人々を見ると、意見を言う前に引いてしまうものがあった。

ところで、昨年11月の「王たるキリスト」の主日に、「いつくしみの特別聖年」の扉が閉じられたが、パパ様は「神のいつくしみが及ばないところはない」として、これまで何世紀もの間「教会からの破門」という大罪とされてきた「堕胎」、つまり「人口妊娠中絶」について、「司祭に告解をすれば、女性も執刀医も赦される」という革命的布告を出された。

カトリックの国である、イタリアでは中絶法が施行されて以来、2015年には9万7千人の女性が公立病院で中絶手術を受けているという。けれど、カトリックの教えの影響を受け、産婦人科医の70%が、「良心による手術拒否」をしているという矛盾もある。こうした状況にある以上、パパ様の布告(決して、堕胎を認めたわけではないが)はどれほど多くのカトリック女性信者の救いになるだろうか。

話は戻るが、今年の「命の日」のテーマは、昨年9月に聖人に列聖された「カルカッタの聖マザー•テレサが残した跡の命の女性と男性たち」と言うものだった。

記念日に先立ち、先週金曜日の夜に、ミラノでは、私のパロッキア(教区教会)にPIME(ミラノ外国宣教会)が出版しているアジアニュースの編集長である司祭、ベルナルド神父をお招きし、マザーとの出会いやインドでの活動を紹介していただいた。

聖人になる以前から聖人同様の姿であったという。マザーは、世間から見捨てられた、貧しい人や、孤児、ホームレスなどそのまま死んでいこうとする人々を見捨てないでいた。彼女は、時間があれば、祈りを捧げ、多くを語らない人だった、とベルナルド神父様。

>(イエス)は、捨てられた人や、孤児、病人、死にかけている人の中にいらっしゃるのです。

 

>カルカッタには約 40 万人位の路上生活者がいる。なぜ、瀕死の人をホーム(死を待つ人の 家)に受け入れるのか?という問いに対し、「まず何よりも、いらない人ではない(必要な人)と感じ取ってもらいたいのです。この

人たちを大事に思っている人がいるのだと知ってもらいたい。まだ生きていなければな らない数時間のあいだに、人間からも、神からも大事に思われているのだと知ってもら いたい。」

そして

 

>「この世の最大の不幸は、貧しさや病ではない。むしろ、そのことによって見捨てられ、 誰からも自分は必要とされていないと感じることである。」 

 

放っておけば死んでしまいそうな人たちを、見捨てず、逆に生きていく自信を与える、という行為。それは相手を「一人のかけがえのない人間」として認め、尊重し、勇気や希望を与えることだろう。そこで、初めて生きるべき「命」とは?という原点を考えるようになるわけだ。


また、講演会では、論点が「中絶」に触れると、どうも感情的になる意見も出たり、ぴりぴりとした空気もあったが、マザーテレサの働きの源泉を考えるとき、まずは彼女の愛唱聖句を思い出さないわけにはいかない。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。(ガラテヤ 2:20) 

 

単なる福祉事業や慈善運動と捉えるのではなく、祈りをもって、またイエスの模範に従い、神に自分たちのすべてを捧げようとする姿にただただ心を打たれた。

 

また、1981年に日本を訪れた際、ショッキングなことを口にされた。

 

> 「日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本人は物質的に本当に豊かな国です。しかし、 町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に無関心です。物質的に 貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。物質的に豊かな 多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。愛の反対は憎しみとおもうか もしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」

 

これは今や、世界中で起きていること。いきなり世界を救うことはできないが、少なくともみじかな人に笑顔で接し、心の通じる生活をしたいものである。

 

追記

この日のAngelusでは、パパ様は、イタリアの司教たちと一致して、人間の生命を大切にするための勇気ある教育活動の推進を願われた。

 

また、「すべての命は聖なるもの」と述べたパパ様は、「切り捨ての論理」や人口減少に「命の文化」をもって答え、中絶の危険にさらされる子供達や、人生の終盤にある人々に寄り添い、彼らのために祈りましょうと呼びかけられた。

 

「誰一人見捨てられることなく、愛が命を守るように」とパパ様は願われ、「命は美しいもの、賛美しましょう。命は生きたもの、守るべきもの。」とマザーテレサの言葉を思い出された。