”Lei it Go 〜 ありのままで“の歌詞を初めてじっくり聞いた。
それももうやめよう
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ありのままの姿みせるのよ
ありのままの自分になるの
何も怖くない風よ吹け
少しも寒くないわ
.......
これでいいの 自分を好きになって
これでいいの 自分を信じて
光あびながら 歩きだそう
少しも寒くないわ
いい歌詞だなあと思う。
ありのままの自分を受け入れるのは、意外に難しい。
けれど、その自分を受け入れられない限り、きっと他人様を受け入れるのも難しいんじゃないかと思う。
ありもしないセルフ•イメージを作り上げ、自分にも、そして他人にもそれを見せようとする時、どこかで無理が生じ、不自由になってしまう。絶えず自分を、それらしく見せかけていないといけなくなってしまうから。
ところで、先日1月25日は「パウロの回心」を記念する日だった。カトリックの使徒や聖人たちの記念日は大抵、殉教または亡くなった日が記念されるが、聖パウロにあっては、その回心の日(ユダヤ教からキリスト教への転向)が教会歴の中に加えられている。パウロの回心の出来事は、使徒言行録の中で9, 22, 26章の3回にわたって述べられている。 http://sanpaolo.or.jp/?p=1858
また、コリント人に宛てた手紙の中で、パウロは自分の弱さについてこう言っている。「...大いに喜んで、わたしは自分の弱さを誇ることにします。...」(2コリント12:9) つまり、わたしが強かったら、キリストの出番がなくなってしまう、だから自分は己の弱さを大切にし、その弱さがあることを誇りとさえ思っているというのだ。
では、「わたしの弱さ」とはなんだろう?先日映画「沈黙」を見てから、キチジローの弱さは自分の弱さであり、それをまじまじ見せつけられたようで、かなり滅入った。内容を知っていながらもかなりグッと来て重かった。
それでも、「ありのままのあなたでいいですよ」と無条件に受け入れてくれる人に出会うと、私たちは、よそ行きの顔をする必要もなく、安心してありのままの自分になれるのではないだろうか。わたしはカトリック信者になって、自然体ですごく生きるのが楽になった。そう、上記の歌詞のように「少しも寒くないわ」といった感じ。苦笑
ところで、今日、教会のお御堂にお祈りに行ったら、先に入っておられた同年代くらいの男性が泣いておられた。人間は皆弱い。だから救いを求めて生きたっていいじゃない。泣いたっていいじゃない。むしろそうあるべきだと思った。祈って救われるのなら、それほど楽なことはない!という人もいるかもしれないが、祈ることで、涙を流すことで心が落ち着くこともあるのだ。
自分の弱さを認め、神様に「こんな私ですがお願いします」と告げると、どこからともなく「よし来た!任せとけ!」と言われるような気がする。(ちょっと現金すぎるか!苦笑)