聖書のみ言葉は、一見簡単そうに見えるが、用いられるたとえ話が難しい。たとえ話はイタリア語で、パラボラ•parabolaと呼ばれるが、これは、ギリシア語のパラボレー(parabolē)から由来しているが、根底には、「比較」という概念があるという。
今の世の苦しみと、来るべき世の栄光との比較とでも言おうか?また、時に暗示的、時に逆説的でもあり、理解に苦しむ。
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。(マタイ5:1-12a)
この説教は、ある意味、キリストの教えの中心とも言えるものである。つまり我々、信者が、人間が「歩くべき道」。
この日のAngelusの祈りでは、パパ様は「心の貧しい人々」とは、自分が置かれた乏しい状況の中でも、反抗的にならず、謙遜で、素直に、神の恵みを受け入れる人々の感情や態度を表していると説明された。
さらに、心の貧しい人々の「幸い」について、物質に対してと、神に対しての2つの側面があると示された。
心の貧しい人々は、物質面において清貧であり、本質を味わい、人と分かち合い、貪欲な消費に取り付かれることなく、物事の良い面を発見しながら、毎日を驚きをもって生きることができると指摘。
神に対しては、世界は祝福されたものであり、その根源は創造主である神にあると知り、賛美と感謝を捧げることができる人々であると話された。
また、心の貧しい人々とは、自分自身や物質的豊かさに頼ることなく、自分の意見に固執せず、他人の意見に尊重をもって耳を傾けることのできる人々であるとも説かれた。
私たち、共同体、そして社会が心の貧しい人々のものであるならば、そこには分裂や、対立、批判は減少する。対話ができれば、平和な状態へともたらすことができるであろう、と。愛と同様、謙遜は人々に必要な本質的な「徳」の一つと言える。
パパ様は心の状態を手の平でジェスチャーで表しながら、心が閉じた状態は、
真福八端は、私たち自身に向けられた「福音=良い知らせ」として聞くこと、これが「幸い」の言葉を受け取る最も大切なヒントとなるのではないだろううか。

