私自身は、「私」そのもの、実物大を綴っているつもりだが、あとは、読み手の方々の「心のプリズム」にもよるのではないだろうか?
バーチャル的なお付き合いをし、実際お会いして、イメージ通りでした、と言われることが多いが、それは、小説を読んでいて、自分のイメージでストーリーが展開していき、そしてその小説がドラマ化されたり、映画化され、イメージ通りだったりすると嬉しくなるが、そうでないと、がっかりしてしまう。そういう感覚なのだろうか?
ところで、「未見の我」という言葉ある。私たちは、結局、自分自身を全部知っているわけではない。いろいろな人との出会いや様々な経験を通じ「未だ見ざる我」に気付きながら、パーソナリティを自分らしく作っていくことが大事なのではないだろうか。
小さい頃は、引っ込み思案で、おとなしく、クラスでも全く目だない子供だった。それを言うと、皆、嘘でしょう?というけれど、ホント。小学生の頃の通知表を見ると、毎年同じことが書かれていた。指せば答えられるのに、自分から手を挙げない。何事にも消極的だ。(下手すれば)冷たい、などとも書かれており、今、自分で読むと、うーん、この先生達は人の隠れた部分を引き出す能力がなかっただけじゃないの?と思ってしまう。苦笑
高校生の頃、2年間担任になった先生が、体育を受け持っていて、私がバドミントン部で毎日朝練、昼練、午後はもちろん、週末も黙々と練習していたのを認めてくれたのだろうか?いつからか「おい、お前、これやってみろ!」と体育の授業の見本を皆の前でさせられたり、挙句の果てに学級委員にさせられ、はじめは仕方なくやっていた仕事も、意外に私にあってる?!潜んでいたものを引き出してくれて、気づけば人におせっかいを焼いていたり、気づくと物事をまとめていたり、気づくと人の間に立ってしゃかしゃかやっている自分がいた。爆 あの先生には感謝なしではいられない。
それとは別に、最近、以前読んだことのあるスペインの作家の言葉を偶然思い出した。スペイン人の作家 のミゲル•デ•ウナムーノは、作家でもあり、哲学者でもあり、劇作家でもある。
「私の中には、三人の人がいる。一人は他人から見られている私、二番目は自分自身が見ている私、そして神から見られている私」
そう。いままでは他人から見られている自分と、自分自身をみている自分にしか、心を止めていなかったが、信者として神からみられている自分、というのもあるのだと思い出した。
通常、人は、他人から見られている自分を気にしがち。とはいえ、何か理不尽なことを感じた際、神様が私のことをご存知ならばそれでいい、と思うことさえある。この自己矛盾。なんなのだろう。また、人に過剰に賞賛されたりすると、本当はそんな人間じゃないのに...と大変申し訳なく思う気持ちは、やはり神様に引け目を感じているからだろうか。これまた矛盾。
キリストによって、キリストと共に、キリストの内に生きること。これが私の人生に意味を与えること、本来はそれだけなのかもしれない。結局は、基本に忠実。神に忠実。
「未だ、見たことのなかった自分を目指しなさい。 心は熱く、 一生に一度くらい、本気でやってみなさい。必ず達成します。 運命を造りなさい。」 ( by吉田松陰)
毎日を弾丸のように慌ただしく過ごしていては、未見の我に気付けないなあ。
未見の我を信じ、未見の我を発見し、未見の我と出会う。
その喜びをどれほど重ねているかが、「天職」を見出している人とそうでない人の違いになるのかもしれない。
あなたは、自分自身の「未見の我」を発見していますか?
その喜びをどれほど重ねているかが、「天職」を見出している人とそうでない人の違いになるのかもしれない。
あなたは、自分自身の「未見の我」を発見していますか?