殉教について思う | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

いよいよ日本でも映画「沈黙」が始まる。

 

先日映画「沈黙」に関し意見を書いたばかりだが、昨年の今頃、ミラノのあるイベントでサンフェデーレ教会というところを見学に行っており、当時の日記を読み返し、ぜひ殉教について書きたくなった。

 

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12117520680.html

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12117574156.html

 

このサンフェデーレ教会はイエズス会に属しており、16世紀当時イエズス会東インド管区の巡察師として活躍しておられたヴァリニャーノ神父の発案により九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として4名の少年の天正遺欧使節団がローマへ送られており、ミラノにもよっているはずなのだ。(1582年-天正10年)

 

使節団は4名だった。しかし、彼らは帰国し、神学校に入り、司祭に叙階したのは3名のみ。一人は、棄教したばかりかキリシタンを弾圧する側に回ってしまったというから、驚いた。残り3名、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンが叙階し、ジュリアンが棄教を迫られ、逆さ吊りの刑にあい殉教している。

 

それとは、別に2011年3月。東日本大震災があった際、前年のカンヌ国際映画祭においてグランプリを受賞した「神々と男たち」という映画が日本でもイタリアでも上映され始めた時だった。1996年にアルジェリアで起きた武装イスラム集団によるとされるフランス人修道士の誘拐、殺害事件を題材に、人間の尊厳と使命を問うドラマ。テロの恐怖に直面した修道士たちの心の葛藤を描いている。命とは?勇気とは?そして信仰とは?

 

 

 

日本では、震災前の3月5日からシネスイッチ銀座で上映されはじめたばかりだった。そして信者の友人もこの映画を観に行った日に、地震にあい、中断し日比谷公園に避難し、その後、6時間半かけて歩いて帰宅している。私は震災の6時間後に映画を観に行っていることになる。

 

映画を観直したくても、どうしても震災のことを思い出しそうで、怖くて観れず。けれど、「沈黙」とは違った意味での殉教を描いているが、信仰がふかまれば、いかなる宗教、階層、肌の色、国籍、貧富の差も存在しないと思い知らされる。どんなに恐ろしい緊張にも屈せず、自由でいられるか人間とは・・・という問いにもつながる。FB上で映画「沈黙」をすでに観たイタリア人たちは、これぞ信仰。我々も沈黙しないといけない。という声を多々聞いた(読んだ)が、苦しい選択だ。


愛という全能のエネルギーによって、存在し、生かされ、活動させられている私たち、人間。神の愛。そして真理。

 

2008年には、長崎にて、日本の「ペトロ岐部と187殉教者」が福者に列せられている。1603年から1639年にかけて日本各地で殉教した日本人のカトリック司祭、修道者、信徒であり、司祭になるべくローマへ徒歩でいったペトロ岐部や上記、天正遺欧少年使節の一人である中浦ジュリアンらも含まれている。

 

殉教から何を学ぶか、今年の四旬節の私のテーマかな。

 

*画像は、中山正美「都の大殉教」よりテクラ橋本と子どもたち(バチカン美術館蔵)

http://www.kyoto.catholic.jp/hp/jihouy08/y0810/cn200810.htm#a

 

 

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-10834637973.html