長かった冬休みも終了し、私の日常生活も始まった。
日曜日、オラトリオでは、ミサの後、オラトリオに関わる人たちが集合し、分かち合いのランチを食べてから話し合いをします、とのことだった。
話し合いって?なんで私がメンバーなんだろう。ミサに出て、聖歌隊で歌ってるだけじゃダメなの?いつも、同じことを考えてしまう。なぜ(司祭の)ドンRは私を呼ぶの?やる気になっても、オラトリオで子供達の喧嘩(特にアラブ人の子供達が来た時)に巻き込まれ、また自分の子供だけでも頭を抱えているのに、学校で落ちこぼれ、行き場のない子たちが集まり、汚い言葉は発する。言うことは聞かない。カテキズモに来る送り迎えの保護者は、そういった子供達のしつけの悪さを愚痴る。ああ、ここは私の居場所なんだろうか? 何度も自問自答してきた。
「T子、来るよね?」ドンからメッセージ。とほほ...はいはい、行きます。彼のペースにいつも巻き込まれてしまう。
ところで、オラトリオとは、ヘンデルの「メサイア」やハイドンの「天地創造」などの宗教的な題材をもとに、独唱、合唱、管弦楽から構成される大規模な楽曲のことを呼ぶが、その他に、サレジオ会のドンボスコが提唱したいわゆる教会学校みたいなところがある。語源はラテン語の「Orare=祈り」から来ており、実際は、祈りの場だけでなく、リクリエ-ション、勉学やあらゆる教育活動の場となっている。ドンボスコ曰く、「教育は心の問題」。ここでの教育の基本は「愛情、道理, 信仰」である。そして教育者は, 金銭や組織だけではなく、心をこめて献身的に働く人という意味。http://www.m-caritas.jp/vivadonbosco/141211.html
その教育者としてオラトリオに関わる人間が呼ばれたわけ。(私は月曜日のオラトリオの責任者)話し合いというよりは、いわゆる研修のようなもので、キリスト教的価値観を活かしたチーム•ビルディングのようなものが行われた。
ちなみにチーム•ビルディングとは、itamaに所属していた時、毎年スタッフ内で行われてきた研修で、目的は「仲間が思いを一つにして、一つのゴールに向かって進んでゆける組織づくり」のことをいう。しかも「ゲーム形式のアクティビティを用いた体験型のプログラム」を行うのだが、会社と違うのは、我々は一応同じ信仰をもつグループ。なので、その”知恵”と”目”、そして”心”を生かして、結びつかなくては意味がない。食事の際は45人いたが、それから帰宅する者、やって来る者あり、40名前後の人数で研修が始まった。まずは2つのグループに分かれ、ゲームをした。
ゲームといっても、半ば真剣なものなのだが、例えとして、ヴァチカンから一通の手紙が来て、余剰金として、教会のプロモーションや行事に関わる物事5項目に対し、いかにお金をつかうか、賛成派と反対派となって、意見を出し合うゲーム。あまりにも現実味のある例が挙げられた(修復問題、暖房問題、福音宣教問題などなど)。15分間、話し合いをした後に、チームの代表者がその結果を発表するのだが、偶然にも両チームの代表は、実際弁護士の職につく二人で、プレゼンテーションもうまい!とても、これはゲームなのか? 現実問題を討議しているのか? わからないくらいだった。
また、司会進行をするドンRの切り盛りがうまい!仲間への尊敬や信頼が増して、会話やコミュニケーションが活性化される。ちなみにitamaでは、専門家に頼まないと、堂々巡りになったり、話がスムーズに進まないことも多かった。
ところで、パパ様が提唱された今月1月のテーマは、キリスト者の一致である。すべてのキリスト者が、教会での霊的な交わりを取り戻すために祈りと愛の実践に努め、また、人類が直面しているさまざまな脅威に対処するために協力し、主の教えに忠実に生きることができますように。ということだが、まずは、教会内で霊的な交わりがなければ、その辺で行われている井戸端会議と何一つ変わらないだろう。
第2部は、2014年にパパ様が発表された使徒的勧告”Evangelii gaudium"(邦題:「福音の喜び」)を読んだ。第2章、「危機に直面する共同体」の中における102条、「教会におけるその他の課題」である。信徒における責任意識を促すものだった。ああ、この会議ならぬ集いはこれが目的だったのか...とふと思った。(またもやドンRの策略に乗せられてしまった!)ある重要な責任を担うポジションには、それなりの養成が必要だが、たいてい教会ではそういったものは行われていない。また、聖職者中心主義の教会だと、信徒は意思決定はできなかったり、表現や行動さえ見出せない場合もある。信徒の養成と福音宣教は、重要な司牧的課題であろう。
ブレークを挟んで、再びゲーム。3人ずつのグループが11つに分けられた。各チームに、ある病気の症状が宣告され、それは社会のどういった部分に現れているか? そして、処方箋として、①頭に、②手に, ③心に、何をすべきか?と問うものだった。私はなんと高校生の男の子2人と一緒のグループだった。ちなみにこれは、パパ様が2014年の降誕祭の挨拶の際、ヴァチカンが抱える問題点を「15の病」に例えて厳しく指摘し、またヴァチカンのみではなく、世界中の教会組織と信者の問題でもあると述べられたものを引用。http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0182.htm
例えば、私たちのチームは、「競争と虚栄心という病気」だった。外観、衣服の色、肩書きが人生の主な目的となってしまう時、わたしたちは聖パウロの次のことばを忘れてしまう。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2・3―4)。この病気はわたしたちを「欺く」人に変え、偽りの「神秘主義」、偽りの「静寂主義」に導く。聖パウロは、そうした人々を「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と定義づけた。彼らは「恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」からです(フィリピ3・19)。....というもの。
①私たちは、まず、他者に対し、好意を持って接すことが大切。そして②手は、合わせて、共に祈る。③「口笛を習おう」ドンボスコにならい、相手の目線に合わせるために接点を探る。その他、相手を許す、謙虚になる。人を裁かない、相手の話を聞く、よく話す...そういった解決策を探した。
そっか...普段のオラトリオをはじめ、人間関係の中では、いかに自分中心に物事を見ているか、聖パウロの言葉を使うのならば、「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって作り上げてゆくのです。」(エフェソ4:15-16)
その後、祈りをもって終了したが、食事を含め5時間たっぷりの集いは、オラトリオに対し前向きになれた。共同体は、建設的に、そして継続的な組織作りが大切。そして誰でもが、心にキリストがいることを忘れないように...
