母親の宿命 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

冬休み中、長女が帰省していた。が、ほとんど外出で家に帰ってくるのは夜中で、お昼まで寝ている。帰宅しない日も数日。会話という会話もほとんどなかった。トルコ旅行中も気付くと勉強ばかり。一時具合が悪くなり寝込んでいたが、私が見ていないときは、ずっと勉強していたようだ。

 

後からわかったのは、外にいてもずっと勉強していたようだが、食事はいるのか?帰宅するのか?業務連絡のみの連絡をすれば、うるさいと言われ、連絡をしなければ、ママは私に無関心だ、と怒る。挙げ句の果てに、長男がいい加減な生活をし、2留もしたのは、私のせい。次男が、ゲームに熱中し、食べてばかりにいるのも私のせい。なんでも私のせいにする。言い方が辛辣だからこちらも傷つく。

 

夫に八つ当たりで、長女のことを言うと、「しょうがないよ。それが母親の宿命というものだ。」と簡単に言う。そこでまた傷つく。なんでいつも私のせいなんだ?!

 

宿命ってなによ。漢字だけをみれば「命が宿る」なんですけど。



命・生命体は、平穏無事の明るい未来は約束されていない。誕生は「めでる=芽出る」ことで、喜ばしいことではあるが、その未来には必ず、生きるための苦難のドラマが待ち受けている。それが今なわけ?
 
「命」の定義は、「イ・射・尖り動くもの。古代の代名詞・汝・行きもの・生き物」+「ノチ=後世への血の道筋」を現す。「のち・後」とは「ノ・乗る」+「チ・血の道」=「子孫・生きて継続する血の継承」=「ノチ・後」を意味する。

ある仏教のサイトで、宿命の語は「因果律」という同一原因・同一結果という「律=生起の絶対規則」に対して、「因縁」という偶発的な「縁起=条件参入」という予測不可能の事態から引き起こされる結果に対して「観念せよ」という「喝」が与えられる。そこには、男女の結合のという偶然事象によって引き起こされた運命的な宿命の「律的存在」を観ることができる。ここにおいて必要となるものは「諦観」という「観念」である、とあった。「宿命」は「あきらめ・諦め」なわけ?

 

カトリックでは、「宿命」というか「運命」は「神のみ摂理」と考える。つまり神のご計画。そこで、「親の祈り」というのを思い出した。

 

 

「親の祈り」

神様
もっとよい私にしてください。
子どものいうことをよく聞いてやり、心の疑問に親切に答え、
子どもをよく理解する私にして下さい。
理由なく、子どもの心を傷つけることのないようにお助け下さい。
子どもの失敗を笑ったり怒ったりせず、子どもの小さい間違いには目を閉じて、
良いところを見させて下さい。
良いところを心から褒めてやり、伸ばしてやることができますように。
大人の判断や習慣で子どもを縛ることのないように、
子どもが自分で判断し、自分で正しく行動していけるよう、導く知恵をお与え下さい。
感情的に叱るのではなく、正しく注意してやれますように。
道理にかなった希望はできるだけ叶えてやり、
彼らのためにならないことはやめさせることができますように。
どうぞ意地悪な気持ちを取り去って下さい。
不平をいわないよう助けて下さい。
こちらが間違った時には、きちんと謝る勇気を与えて下さい。
いつも穏やかな広い心をお与え下さい。
子どもと一緒に成長させて下さい。
子どもが心から私を尊敬し慕うことができるよう、
子どもの愛と信頼にふさわしい者として下さい。
子どもも私も、神様によって生かされ、愛されていることを知り、他の人々の祝福となることができますように。 アーメン

 

あゝ、今更ながら「育児」は「育自」だと思う。

親は自分が持っていないものを子供に与えることはできない。優しい心の持った子供に育って欲しければ、自分がまず思いやりのある人となり、他人の痛みをわかろうと努力することが大切だ。

 

今日、教会のお御堂で子供に対し、また自分に対し祈った。私たちは祈ることによって、自分の不完全さ、思い上がりに気づき、また人の不完全さを赦す心のゆとりを取り戻すことができる。もちろん、祈ったからといってすぐに、心に平安が生まれ、上記の詩のように素晴らしい親になれるはずはない。けれど、祈る親と祈らない親では、大きな違いがあることだろう。

 

子供を叱ったり、落ち込んだりして、今度こそ「良い親」になろう、と思う。それを繰り返すのは人間なのだが...けれど、その繰り返しが、親も子供と共に育つと信じたい今日この頃...。